top of page

日本仏教の礎

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada

千夜千冊1809夜、新アジア仏教史11『日本仏教の礎』を読んで思い浮かんだことを書いています。 https://1000ya.isis.ne.jp/1809.html  先生に直にお礼を言う機会だと思ったのに、言えぬままになってしまいました。 「昆虫とかアイスキャンデーとか百貨店とか大相撲とか、マンガとか鴨川をどりとかお祭りの夜とかチャンバラ映画」。ぼくにも説明はつかないものの、これだけで充分すぎるほどです。  先生が仏教の理解に手間取ったなんて、ぼくからすると信じられないような気持ちですが、ぼくもお寺や、あるいは江戸時代や日本の古代の不思議が好きでありながら、一体「何がどう好き」なのか、なかなか説明できないので、その気持ちだけ分かるような気がして、スルスルと今夜のお話の内容に引き込まれてしまいました。


 ぼくは49守をなんとかやり遂げました。初めはみなさんに編集力を授ける仕事だと字義通りに思っていたのですが、負に直面したことで、ぼくの予想を越えて色々な事を伝えることになりました。怒涛の4カ月のお蔭で、テキスト以外でも、大勢の人前でも少しばかりは喋れるようになったり「自分が今どうしたいか」に即して編集をしていく方法が、ほんの少し分かった気がしています。

 来期(次の破)の師範代にはならないのは、時間が無いということではなく、指南をしているとそちらに夢中になってしまい、マンガを描かなくなってしまったからです。ぼくは一つのことをメインにしてガッと集中する性分のようで、同じくらい大切なことが2つ以上あると、やはり責任があり、相手がすぐそばにいる方に重きを置くことになりました。今夜のお話も後押しとなって、とにかく今は描いてお届けしたいという気持ちがあり、また描いてしまわないと気もそぞろになり、学衆さんたちに失礼にもなりそうなので、49守を終えたら暫くマンガに集中しようと思います。

 ただ、やはりまだまだぼくは全く学問が足りないので、もっと本を読まねばならないとも思っているところです。  世界の裏側についての話は、生きて行く上では情勢をある程度は押さえることも、必要なことだとぼくは思っているのですが、構造が把握できたら、あとは自給自足などの行動に移さない限りどうにもならないことが身に沁みています。  実は知人から持ち掛けられた要件があり、転機が訪れました。こうなると今までとは反対に、自分が具体的にどうするかについては、その情報をネットで明かしたりしないほうがよい気がしています。  裏側についての話は、5つぐらいのサイトを並行して見ているのですが、その人たちの言説に全面的に寄りかかるのではなく、「この人のここは納得できるけれども、はたしてこれはどうなのだろうか…」とか「この人とあの人が言ってることは噛み合わないな」というようなこと考え比較しながら観るようになりました。仏教が画一的に語れないように、こうした情報にも差異があるので、細かく取捨選択をしていく必要があるのだと感じているところです。  日高敏隆先生の『人間は、いちばん変な動物である』というご本をいただく前は、裏側についてのキワキワな情報を、時間をかけて型を使ったりして分類したり、整理したらいいのではないかなどと思いかけていたので、先生のメッセージは、そういった、しなくてもいい余計なことがしたくなっていたぼくの気分にストップをかけ、軌道修正する指南になっているのだと気が付いたところです。背景はまったく異なりますが、先生と母の言っていることが微妙に似ていて驚きました。もっとも母の場合は学問ではなく畑をもっと手伝えと言っていますが(笑)。  最澄や空海が国内のコンプライアンスに疑問を持ち中国仏教の動向を確かめたように、海外の動向を翻訳して発信している人は何人もいるので、今更ぼくが今以上にそういった情報を必要以上に追いかけていかなくてもよさそうだと思いました。

 ぼくは「誰か」という犯人探しではなく(白人の貴族らしいですが、そういった連中の名前や顔を知るだけでは何も変わりませんし)、それよりも「誰にどう」伝えるかを迷っていました。 

 具体的には、特にぼくの仲間の一人がワクチンを接種後、ワクチンのポリエチレングリコール内にランダムに入っていると見られる酸化グラフェンがWi-Fiの5Gで励起したことにより、大動脈瘤乖離を起こし亡くなってからは、同じようなことを繰り返さないようにするためには、どのように危機を知らせたらいいかということが、ぼくにとって最大のお題となってしまいました。K師範の言うように戸惑う人もいるのは承知ですし、ショックを受けられるかもしれない。それ以前に現実として受け入れられないのではと思い、先生が仏教についてのお題を抱えておられるのと同じく、先延ばしになっている状況です。  先生の仰るように学問をしなければ、そういう「うさんくさく見えてしまうこと」を、秋嶋さんのように説得力を持って伝えれないなぁと思っているのですが、ぼくが秋嶋さんのような方向を目指すのは「らしくない」し、自分の役割りでも無さそうです。そんなぼくにとって、いただいたご本は、日高先生の語り口も含めてモデルとなり、表と裏を縫い合わせる糸となってゆくのではないかと思っています。

 マンガを描きながら、顕教と密教が相互に補完しあってきた「顕密体制」や「神仏習合」のようなことを、まずぼく自身が自分の中で起こしていかなければいけないのですね。自分の中で起こすことが出来たら、今度は誰かとの間で起こしていく。その一端が、アニマ臨風教室での昆虫アイスキャンデーをどりとなっていたのかな。  もっと、言葉を身に付けなくてはいけないなとも思いました。しかしひとまずここまで来れたのも先達と仲間たちのお蔭です。この冒険に関わり、見守ってくださったみなさんに感謝をしたいです。しばらくはお会いできないのかもしれませんが、一連の仏教千夜から感じられることや、感門でのおもてなしの全てが、ぼくはとても嬉しかったです。セイゴオ先生、ありがとうございます。  月灯り抱く嬉しさも寂しさも


© 2023 EK. Wix.comを使って作成されました

  • w-facebook
bottom of page