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最澄と天台教団

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada


千夜千冊1810夜、木内堯央さんの『日本仏教の礎』を読んで思い浮かんだことを書いています。 https://1000ya.isis.ne.jp/1810.html  先日友人の畑を手伝いに行き、みんなで野菜の種採りをした。ゴボウの種はイガイガに包まれていて、棘が指に刺さり痛い痛い…と、ぼくだけが言っていた。みなさんむしゃむしゃとイガイガを剥いちゃって、スゴイなぁと感心したもんだ。大根の種は一見落花生のようだ。レタスに人参に高菜…よく食べている野菜なのに、種を見たのも触れたのも初めてだ。これも学問。生きた学問ではないだろうか。小雨が降っていたけれど、Fさんの奥さんやみなさんと一緒に種を蒔いた。これからも機会があればなるべく行きたいと思う。  今夜のお話は、最澄が空海に出した手紙からはじまる。昔の日本には、漢詩を詠みかけられた場合、その詩と同じ韻字を用いて詩を返す風習があり、それを「韻を和す」と言ったそうだ。空海から贈られた『中寿感興詩』に、和韻して返すには、最澄はどうしても本の内容を知る必要があったのだという。  なんだかこの習慣は、編集学校で言うところのインタースコアに似ているなと思うのはぼくだけだろうか。また、セイゴオ先生のことを空海のように感じている松岡正剛ファンは多いけれど、「編集学校を作った人」という意味では、先生は最澄と同じような立場におられると考えることもできるのかもしれないと感じた。  手紙を送り合った二人の書風はどちらも王羲之を手本としていながらも、最澄が端正で律義な書であるのにくらべ、空海はそのつど変化変容する。書風の違いと呼応するように、二人は仏教を志し、同じ遣唐使船で中国に渡ったが、その人生や宗派の行方は大きく異なっていった。  しかし先生に本が欠かせないように、最澄も空海も互いに本を必要としていた。なぜなら当時の最先端の日本仏教とは、新たな経典やその評釈などの「本」を卒先して読むことであったからだ。その際はどんな「本」に出合うか、その「本」にどのような解釈をほどこして読むのかが重要になって来る。読みにも編集力が要るということだ。  空海とともに、最澄は法相宗の学僧・徳一に論争をふっかけられたそうだ。  最澄の所属する、『法華経』をつくった大乗グループは、釈迦仏以外にもブッダ(覚者)はありうると主張し、修行者を、教えを聞いて悟ろうとする声聞乗(小乗)、自身の悟りを求める縁覚乗(中乗)、一切衆生のために仏道を広める菩薩乗(大乗)という「三乗」にレベル分けしながらレベルアップを目指す。声聞・縁覚乗はまだ「二乗」、大乗へ進むと「一乗」となる。『法華経』ではブッダは「小乗や二乗の道は、大乗に導くための方便だ。本来の道は一乗なのだ」と語っている。これがやがて天台宗の基本テキストになり、天台宗を学んだ最澄も、この「一乗でまとめる」路線で行くと決めた。  徳一の法相宗は「三乗それぞれでいいじゃん」路線だったため、徳一は文句をつけたくなったのだろうか。  イシス編集学校に照合すると、声聞・縁覚乗が「守・破」、菩薩乗(大乗)が「離」になっているのだろうか…などと想像した。そんなに単純ではないかもしれないけれど、そんな気がしなくもない。  最澄はエリートの生まれらしく、トントン調子で授戒してもらったものの、小乗戒では満足できず、若くして比叡山に入ると草庵を結び、山林修行を始めた。座禅し『法華経』『金光明経』『般若経』などを読誦し、自身の覚悟をまとめる「願文」を認(したた)めた。単なる理念ではなく実践的なプランがあったとは偉いなぁ。ぼくももう少し具体的に自分のジンセーの計画を練った方がいいのかな。

 入唐は天台山にいる智顗への憧れもあったようだ。セイゴオ先生が杉浦康平さんに憧れてきたように、イシス編集学校に入る人も、先生に憧れて…という人が少なくない。もちろん入門してから先生を敬愛するようになる人もたくさんいる。  入唐体験はすばらしかったけれど、最澄が受けた密教灌頂は「雑密(ぞうみつ)」で、空海が長安青龍寺の恵果(けいか)阿闍梨から受けた「金胎両部の純密(じゅんみつ)」の灌頂ではなかった。  これを世界の裏側論に当てはめると「雑密」と「金胎両部の純密」では「ワクチンはmRNA生物兵器説」と「酸化グラフェン」ほどの違いがあるのだろうか。グラフェンを知る者にとっては、今やワクチン=mRNA生物兵器説はスピンだ。  「コロナワクチンは生物兵器」だと言っている人々は、mRNAが細胞内に取り込まれ、たんぱく質が合成されて人体に新型コロナウイルス用のスパイクができると、免疫の拒否反応が起きて、ウィルスと戦う抗体ができるが、ファイザーやモデルナのワクチンは分解されないように改造されており、分解されないまま半永久的にスパイクを作り続けている可能性があるので「自己免疫不全症」を起こすのだと主張する。しかしこの説を推す人々は国内などで安全なワクチンを作ればいいと言っていたり、コロナが存在する前提で話をしている人が多い。  一方最近話題になっている、インド系アメリカ人科学者、プール二マ・ワグ博士などは、チームと共同で2300本の様々なメーカーのワクチンを調査した結果、どのワクチンにも「mRNA」は含まれておらず「スパイクタンパク質」も無かったという結果を公表している。すべてのワクチンにはハイドロジェルをベースとした還元型酸化グラフェンと、PEG(ポリエチレングリコール)などの合成LNP(皮脂ナノ粒子)、そして「ジャンク」と呼ばれる大量の重金属の汚染物質が入っている。  ワクチン接種者が、すぐ亡くなってしまう人と、一見たいした影響が無さそうに見える人に分かれるのは、用量の違いによる35のバリエーションがあるからだと判明している。こっちはあっちより数ナノグラム違う、という具合だ。もしも致死量の還元型酸化グラフェンを接種した場合、通常数週間から数か月で死に至る。  つまり日本人の多くがワクチンだと思っているものは、本当は生物兵器ですらない。これは「化学兵器」であり、新型コロナウィルスは最初から存在しない。武漢ではインフルエンザワクチンと称してこの「化学兵器」が住民に使われていた。そして5Gの配備が進み、都市が人体実験場になったのである。その成果を今は日本で運用し、日本人の殺戮を行っている。  要は彼らの手法は金属と電磁波によるものなのだ。気象操作(ジオエンジニアリング)においても同様である。最近は特に大量のケムトレイルが撒かれていて空が非常に汚い。HAARPによって巨大台風や線状降水帯の集中豪雨を起こすときは、ケムを撒いたうえで電子レンジと同じ要領で大気を暖めているわけだから、一番温暖化を起こしているのも、大気汚染をしているのも、政府と自衛隊や米軍などの軍隊と軍産企業と、軍産企業と癒着してしまった大学なのである。  最澄は帰国後空海に最新情報を求め、徳一とも論争することになった。空海との交流はしばらく続いたが、最澄が『理趣釈経』を借り受けたいと申し込み、これが断られたあたりから疎遠になっていった。  一方で最澄は九州や東国への天台ネットワークの拡大をめざしていった。各地に宝塔を建てる計画をするなど。最澄は一所ずつに懸命だった。  また最澄はどうしても生きているうちに大乗戒のための戒壇院と、そのための専門の大乗寺をつくり、その大乗戒を受けた未来の学生たちが挑むべき「忘己利他(もうこりた)」のルールブックをつくりたいと願っていた。  しかし南都の僧綱たちの反対にあって待たされ、自分たちでできる編集はしたものの、最澄の寿命には間に合わなかった。なんと、最澄が57歳で亡くなった7日後に大乗戒壇の独立が許され、翌年に比叡山寺が延暦寺になったという。なんだか切ないものがある。  その後最澄の天台教団は、山門派(延暦寺)と寺門派(園城寺)に分かれ、内輪もめをしつつも発展して行った。著者は、藤原貴族らが円仁や相応といった、最澄の後を継ぐ者たちの法力を、自分たちの権勢を示すために活用しようとしたことが、山門派と寺門派の激しい対立に拍車をかけたのではないかと指摘する。  こんな内輪もめを起こさないようにするには、どんな風にしていけばいいのだろうか。気象操作の各機関や組織の関係を見るに、どんな分野を専門に学ぶ人間も、資本主義を肯定して生きるなら、意図せずとも自分の持つ技術や能力や知名度などが利用され、権力闘争に巻き込まれた場合どうなるかというパターンを知っておくことは重要なように思う。  天台教団は藤原貴族に巻き込まれていくだけではなかった。比叡山に学んだ横川の源信は『往生要集』をつくり、新たな動向を起こした。  これ以降、一度比叡山に学んでから、独自の仏教思想や仏教行為に転じていくという習慣ができた。最澄自身はそんなことを望んだわけではないだろうけれど、最澄はなにもかもを抱き込みたいなどと思ってはいなかっただろうとセイゴオ先生は述べている。    さて、ぼくは自分が源信のようにイシスをドロップアウトした…わけではないけれど、マンガを最後まで描いてしまって、またイシスに戻りたいかなぁと今はぼんやり思っていても、実際そのときの自分が、イシス編集学校が、また日本や世界がどうなっているかなんて分からない。編集学校のために、まだ[守]に入ったことのない人々に言えることがあるとするなら、「こんな今だからこそ、学ぶなら今のうちだよ」ということを伝えたい。

 ぼくは何か機会が無い限り、もしかしたらもう先生と直にお会いすることはないかもしれない。考えすぎると寂しくなることもあるけれど、それより今は手を動かさなくてはならない。こうしてぼくはもう一度最澄に戻り、一所懸命生きるしかないと思うのである。

 この大地に宿ろうとする大根蒔く

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