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千夜千冊・1732夜、佐伯和人さんの「月はすごい」を読んで思い浮かんだことを書いています。
月を女性と見立てると女性賛美のようですが、よく考えるとロケット(P)を発射して月(Ⅴ)を征服支配するなんてマッチョな欲望丸出しの事業ですね!
僕はガンダムのことはよく分からないので、宇野さんの本を読んだ影響かは分かりませんが、僕には、どこのロケット開発もミサイル競争も、Pのデカさと性能比べに見えてしかたがありません。
僕は持続可能な開発を続けるために、月を開発したり火星へ移住しようと宇宙開発するために資源を奪い合い開発しているために、環境システムが循環系統で機能不全を起こしていると思うのです。
人類や未来のためと騙りながら、地球を虐待し母たちを消費し続けてきた父たちに、はたして開発を持続する資格があるのでしょうか。
僕はそうは思わないので、プリクティカル・セレノグラフィや女性の実用化(男社会原理による女性の男社会化)には持続可能性を感じません。
さらにマッハを放つなら、「生産性の追求」は破滅的ですらあると思います。
人口の過剰問題は、子供たちが、大人の肉欲のための無責任な避妊の無い性行為によって生まれることがなくなれば解消すると思います。日本では日本血族の少子化が問題視されますが、今生きている命さえ大切にしない政治屋の言う少子化や生産性なんぞ無視していいと思います。
同じように地球の問題は、産業廃棄物やゴミや汚染物質が、大人の金銭物欲のための無責任な生産によって生まれることがなくなれば、持続可能性は高まると思います。
僕は僕に「お前はレイプの結果として生まれ生きて死ぬのか、それとも社会的な見栄の打算の結果として生産性の向上のために、まるで工業製品のように生まれ生きて死ぬのか?」という問いを立て、そのどちらでもない「別様の可能性」を探しています。
なんだか人類の自然について考えているうちに随分月から逸れてしまいました。
僕にはただ月をボーッ見て癒されたり切なくなる気持ちや、女性って不思議だなぁと思う気持ちがあるだけで、神秘的なままでいてほしくて、「全てを知りたい」とさえ思わないのですが、「月に惹かれる気持ち」には大いに共感します。
僕がこの年まで生きてきて、月ではなく女性について分かったことは、多分、女性(の本音)からしたら男の勲章偉業栄光栄誉その他諸々なんて「あら、また出たわ」と言う屁みたいなもんなんだろうということぐらいです。
僕が女性についてどうしても理解できないのは、母親のわが娘に対する無意識的な残酷さです。こればかりは僕にも永遠の謎で、この連鎖を断ち切り、わが娘を心の底から信じてあげられる女性というのは、よほどの苦労をした人なのだろうなと思います。
とはいう僕のほうも、未だに意地を張り通しているのですが、僕の場合「なんだ俺の親父は父親じゃなくて上司だったんだ」と発見することで奇妙なケリをつけてしまいました。しかしこの編集は「いない・いない・いない作戦」で、いつどこで「ばー」がおこるのか、今の僕のジンセーからは見えません。
テレビのほうは見ていません。世の中には良い番組もあるのだと思いますが、ほとんどのテレビ番組が僕には単なるストレスだったのだと思うようになってしまいました。代わりに本を、読書家の方や先生とは比べようもありませんが、僕にしては今までにないほど読んでいます。
母性というと僕の息子としての母親像には、最近読んだ寺山修司さんのような湿度は無いようで、僕は母に女性を感じたことはありません。僕の母は「オカン」と呼ぶのが一番適当なようなカラリと晴れ上がった母なのです。
そのせいなのかどうか、僕は小さい時から幼稚園の先生やら美術の先生やら家庭教師の大学生の先生やら、つまり母以外の年上の女性にばかり月を見ていました。
多分これは距離の問題ではなかろうか…僕の母は近すぎるのでしょう。けれども僕は母にしょっちゅう面食らっています。
「え?マジか…そう来たか…!」
という具合で。