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格闘技の科学/武術の科学

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada



 千夜千冊1842夜、吉福康郎さんの『格闘技の科学/武術の科学』を読んで思い浮かんだことを書いています。


 

 実のところ、ぼくは自分が武術のマンガを描いているとは意識していなかったりする。アクション映画のように「動きのあるマンガ」を描きたいと思っているだけなのだ。

 だからぼくは気に入ったアクション映画を何度も繰り返し観る習慣があったというくらいで、これといって格闘技や武術に詳しいわけでは無い。そのおかげと言っては変かもしれないが、今夜のお話はとても新鮮に感じられた。セイゴオ先生ご自身はご謙遜されているけれども、さまざまな格闘技をご覧になっているし、剣道や太極拳のご経験もあるのだし、実際の武術家の方々ともお会いしておられるのだから、ぼくなどとは比べ物にならないほど格闘技や武術に詳しい。

 今夜は「トルク」(torgue)や「ウェイブ」、合気道の「居付く」、「フラッシュラグ効果」などを知れたし、「拍子」(リズムあるいはビート)のとりかたなど、今までマンガで何となく描いていた(?)ことについて、後から説明していただいたような、大変ありがたい機会となった。


 格闘技か、武術かと言われたら、スポーツは苦手なせいか、ぼくはやっぱり武術のほうに惹かれるが、両方に共通する科学的なトリビアは、なかなかおもしろそうなので、この本は純粋に読んでみたい。ブルース・リーの映画もまともに観たことが無かったので、今度借りてみようかなぁと思う。

 甲野善紀さんのほかに、坪井香譲さんや、合気道の植芝盛平さんのことを知れたのもうれしい。『侍JOTO』はあと少しだが、これから先を描くにあたって、武術の奥に何があるのかを覗いておいたほうがいいのかもしれない。

 

 相変わらず大脳の左下部の奥のほうから響くような耳鳴りが続いているので、ぼくは耳鳴りや自律神経の調整に効くツボを押している。ツボというのも武術と通じる、東洋独自の身体科学なのだろう。手や足や耳に、身体全体の様々なツボが集まって地図のようになっていたり、経絡がリンパや血液の流れとも影響し合っているというのが凄い。中国の人々はよくもまあこんなものを見つけて、細かく体系化したものだと感心する。また、ぼくは最近日本古来の姿勢や呼吸の仕方も気になっている。

 左側を中心に色々症状が出てはいるものの、ツボ押しやセルフマッサージやデトックス、Tさんからいただいた菖蒲の波動水や赤松の酵素のおかげで、一時期よりだいぶ体調は良くなってきているのではないかと思う。顔は目の高さはおおよそ一緒になった気がするが、眉毛の高さが相変わらず左右で違うようだ。

 

 先日の14離の集まりでは、久々に仲間のみなさんのお顔を拝見できたおかげで元氣が出た。その日の議題は千夜千冊エディション『性の境界』で、LGBTQに関しては、やはり主に婚姻制度などの法律をどうするか、社会はどうなっていったらいいのか、「何をどこまで認めるのか」という基準をどうやってつくっていくのかが問題となるよねという話になった。多分ぼくもふくめて鈍感なところがあるのかもしれないが、女性から見るとまだまだ男というのは、旧態依然とした、分かりやすくいうと明治~昭和の家父長制的な「男女はかくあるべし」という考えに偏りがちらしい。


 ぼくの知っているウェブ上の人々は、ワクチンのことや世界の裏事情に詳しいゆえか、上記のような考えに+人口削減やジェノサイドへの危機感が加わり、「LGBT=小児性犯罪者=DS=敵」みたいな認識をしている場合がある。

 LGBT関連の千夜が取り上げられている間、ぼくは「LGBTの当事者全員が小児性犯罪者やサタニストなのではない」と、誤解を解こうと思いながらブログを書いてきたが、世間はLGBTが話題になるほど炎上していくようだった。

 堤未果さんなどは、LGBT問題は改憲および緊急事態条項ワクチンなど、政府やマスコミが国民に知られてはまずい危険なことを隠すための格好のネタにされていると言っていたが、ぼくもそうした面があると思う。


 こんな状態で、ぼくは先生ほど積極的には彼らを援護できないものの、色々な見解を見聞きした者として、LGBTの当事者たちを暴言によって迫害したりはしたくない。一方でぼくは「LGBT法案」およびLGBTの人々を利用して、小児性犯罪を正当化したり、人身売買をしている政治的な権力や組織が滅ぶことを望んでいるという、なんともややこしい場所にいる。


 仲間の一人は、同じ虹でも7色に見える人もいれば、5色にしか見えない人、100色ぐらいに見える人もいるから、『性の境界』の表紙はあえて境目の曖昧な虹色のグラデーションを描いていて、性の境界上のQとは、LGBT…と分けても分けても分けきれないような、何にもカテゴライズされない、決めつけることのできない、別様の可能性を示しているのではないかと言っていた。

 守護霊や妖精や巨人を信じているとか、○○マニアだとか、誰にだって多少なりとも大多数とは違う「Q(変)」な部分はあるものだ。この息苦しい世の中においては、自他のQに鷹揚である人のほうが、より連帯をつくりやすいのだろう。ぼくたちはこれからも「どこまでどうするか」を問い直していく作業を地道に続けるしかない。

 

 14離ではこのテーマについては何度か真剣に話してきたので、先月の夜はどちらかというと婚姻制度から税金の話に逸れて、組織の経営、コミュニティの運営など、お金のことに関心が集まった。そういえばメンバーの一人が、知人のある方が「お金って要りますか?」というようなことを言っていたので驚いたと言っていたが、実はぼくも本当は金なんて要らないと思っていたりする。金のために人を騙したり、人と人が争ったり、殺し合うくらいなら、金なんか無いほうがいいやといった気持ちになる。

 人間が生き残るため、日本という国や故郷を守っていくためには、金なんかよりも山や森や川などの自然、水、農作物などの恵み、風土に根差した文化、周囲の人々との関係性のほうがよほど大切だと思う。

 いざとなったら交換を成立させるためのシステムさえあればいい。重要なのは、助け合う方法を知っていることだ。だとしたら大福帳とは、言い換えるとインタースコアのことなのではないだろうか。


 セイゴオ先生が「ダンスも三味線もピアノも、そもそもが同根の格闘技だったのである。アーティキュレーション(関節や分節)を決める編集術だったのである」と仰っているところを読んで、OさんがAIDAのボードメンバーでもある佐藤優さんはプロレスラーだと言っていたのを思い出した。プロレスというとよく、どこまでが本気なのかわからないという意味で、やらせのメタファーにもなったりするが、Oさんが言っているのは、佐藤優さんは媒体やギャラリー(観衆)に合わせてご自身の「見せ方」を変えることができるという意味なのだろう。

 喋りや語りや対談にも、格闘技や武術的なところがあり、人によってボクシングっぽいリズムだったり、居合的な鋭さだったりするということなのだろうか。ならば編集的に言葉の放ち方に格闘技や武術の感覚を持ち込むことも可能なのかもしれない。


 最近同じく体調不良だという、おにぎり教室のMさんとSNSで健康情報を交換し合い、ゆるゆると行きましょうと励まし合った。Mさんは今イシスでは「倶楽部撮家」に所属していて、普段はよく地元の雄大な風景を撮ってアップしてくださっている。

 倶楽部撮家は先日、先生の傘寿祝いに「これが松岡正剛をつくってきた」と思う「もの」を撮影するお題を掲げていた。Mさんの手の込んだワンショットは、チョコをパキッと割る音が聞こえてきそうで、Fさんの撮った本楼の床は、ちょうど今の季節の夕日のように金色に輝いていた。


 武術家の坪井香譲さんによると「道具」とは「道を具える」もの、タオ(道)ー宇宙の根元の法と働きと力ーを具(そなえ)るための「もの」であるという。

 少し坪井さんの言われている話とは、ずれるのかもしれないが、自分の身体を道具と見なすと、最善のパフォーマンスをするためには、写真家がカメラやモチーフに、職人が道具にこだわるように、ぼくも文房具にこだわるだけではなく、アスリートや武術家のように、身体という道具を整えることも大切なのかもしれないと思うようになった。


 まあどんなに気を付けていても、いつかある日突然脳がどうにかなってぽっくり死ぬこともあるかもしれないし、貧乏の果てに野垂れ死にすることもあるかもしれないが、それまではこの道具を使い切って、遊ぼう。


 星冴えて凍れる刀燃ゆる剣


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