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感門之盟の朝、父が亡くなった。こんなドラマみたいなことがあるものなのかと思いながら、ぼくはこの日のために、当期当番でもないのに休みを取っていたような、こうなると知っていたような気がした。こうした時は現実感が無いとか、現実が瓦解するというよりも、此岸と彼岸の間に入り込んでしまっているというか、次元が揺らいでいるといった感覚になる。こうした時にぼくは、今、未来が書き換えられ、運命が再編集されているのではないかと思ったりする。 最初の大きな手術の時、父と母はリンパ切除まで依頼していたが、手術が終わるのが妙に早かったと言っていた。先日弔問に来た父の古い知り合いのお医者さんも「リンパ切除ができていなかったのでしょうな」と言っていた。ミスなのか、意図的なのか。しかしあの病院の医者は取り除けなかったとは言わなかった。そういうふうにうやむやにして、何が何でも抗癌剤治療に持ち込み、癌患者を殺していく業界のマニュアルめいた了解でもあるのかもしれない。 しかし自宅介護になって、ぼくの家族は地元の訪問看護師さんに恵まれた。志高く、懇切丁寧で、どこまでも患者と家族に寄りそう人が来てくれた。彼女たちが来るようになった翌日、親父がぼくと母に、スコーンを焼いてくれと命じるからどうしたのかと思ったら、どうやら彼女らにプレゼントしたかったらしい。 年を取ってからは、親父は料理が趣味になり、お菓子まで作るようになっていたので、いくつか得意のレシピがあった。スコーンの翌日はパウンドケーキを焼いた。その次はホールケーキの予定だったけれど、親父は徐々に眠る時間が長くなっていき、起きたと思ってらすぐ意識が遠のくので、食べることも、コミュニケーションさえもなかなか難しくなっていった。 風が気持ちいい日だった。前日ほぼ一日中眠っていた父は、ぼくが朝部屋に行くと、フッと目を覚まして「一時間くらい寝ていたか」と聞いてきた。「何日かずっとほとんど寝ていたよ。薬が効きすぎたのかもね」などと話した。その後、父の妹(叔母さん)と、ぼくの姉とその子供(甥であり親父の孫)が来て暫くすると、容態が急変し、叔母が病院に電話して指示を仰いでいる間に死んでしまった。 最期ごく短時間ではあったが、急に痛みが来たようで酷く苦しみ、そのために母が「ごめんね。痛かったね」と、しきりに自宅介護を決断した自分を責めて謝るので、ぼくは瞬間的に、それが父への母の最期の言葉になってはいけないと思って「そうじゃない。”ありがとう”だよ」と叱咤した。あとは動揺する母と、旅立つ親父に向けて「大丈夫、大丈夫」と声をかけていた。 その日はこんな状況で感門に参加できるのかとも思ったが、通夜や葬儀のアレコレが進行しているときというのは、忙しいためか、意外と平気で張り切っていて、楽しい時は楽しいし、笑ったりも出来るものだ。 叔母さんと姉が電話すると、あっという間に親戚一同が集まって、ぼくは自分の一族の結束力を素朴に誇らしく思った。丁度昼時だったので大量のうどんを茹でたら、鍋が小さくて水が足りず、鍋底にたくさん麺がくっついてしまい滑稽だった。そういえば親父も、急変する少し前に、ピザが食べたいなんて言うので、それがぼくとのまともな最後の会話になってしまったが、そんなこともみんなを笑わせるネタになった。 午後から少し遅れて感門に参加。画面の向こうでは、当期を駆け抜けた守の師範代達がキラキラと輝いている。家では子供たちが親父の棺桶に入れる折り紙を折ったり、遺影の写真を探しながら、写真を撮った時の思い出話に花が咲いていた。 翌日はアニマ臨風教室の学衆3名が師範代となって、教室名をいただく式典があったのだが、ぼくは通夜で参加できないので、14離の仲間に頼んでお祝いメッセージを送ることにした。師範もしているIさんやHさんが快く引き受けてくださって嬉しかった。チャットでもイシスの仲間と協力して、楽しみながら感門を盛り上げることができたかなと思う。 今回の感門之盟はエディット・デモンストレーションという。デーモンというと多くの日本人はサタンやルシファーのような、全能の神や善に対する、絶対的なな悪や悪魔だけを想像するのだろうが、デーモンの語源はダイモーンと言い、もっと幅広い意味を持っている。どちらかというと、日本語の鬼やもののけといったモノに近いのだろう。世阿弥の複式無限能に出て来るような、残念や無念を抱えたまま遠くへ行ったモノたちのことでもあるのだ。 今回の校長講話では、そうした扱いにくいモノや危険なモノを、どう編集して行くのかということがメインのテーマだった。対談のお相手が火元組の小倉析匠と、普段オツ千で「語ること」を編集トレーニングとして自らに課している穂積さん(穂積方源)というだけあって、とても充実した、魅力的な対談となっていた。 ぼくの父も絶対的な神なる父などではなく、人の子の親父として遠くに行った。完璧な善人でも無く、物質主義的、消費主義的なところはあったが、かといって他者はどうでもいいといったような人間ではなく、お客さんであれ家族であれ、買ったものや作ったものを贈ることで目の前の人を喜ばせるのが、単に好きな親父だった。真面目で頑固な仕事人間が、歳をとって孫に甘くなるといった、ごくごく普通のじいちゃんとなって遠くへ行った。
世代的な、あるいは見知っている世界観のズレや違いから、また家族であるがゆえに分かり合えないこともあったが、ぼくからは、ぼくたち姉弟の挫折や孫たちとの関わり合いを通じて、親父は少しづつではあるものの、考え方や生き方が変わっていったように見えた。 親父自身がこの世の中は、いい大学を出ていい企業に入って、より多くの利益を出すために努力しさえすれば、家庭も仕事も、ひいては社会全体も、何の問題も無く右肩上がりに良くなっていくワケではないことを、生きることの複雑さと諸行無常を感じるようになっていったがゆえに、ぼくを含めた子供らの挫折や失敗を受け入れながら、なんとか一緒にやっていくことができたのではないかと思う。だからぼくは今、親父がぼくを養い育ててくれたことに感謝し、親父自身の世界再編集に拍手を送りたい。
一つづつ遺品手に取る秋深し