top of page

洞窟のなかの心

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada

 


 千夜千冊1769夜デヴィッド・ルイス=ウィリアムズさんの『洞窟のなかの心』を読んで思い浮かんだことを書いています。

 後期旧石器時代(5万年前から1万年前)、人類史に突如としてショーヴェ、ラスコー、アルタミラなど驚くべき洞窟絵画(cave painting)が登場した。本書はこの洞窟絵画が生まれた事情と背景を追い、そこにはどんな「意識」が芽生えていたのかに迫っている。

 シャーマニズムもアニミズムもフェティシズム(物神信仰)も旧石器時代からはじまっていた。つまり編集は先史時代から萌芽していたのだ。ぼくたちはかなり大昔から萌えていたのである。

 芸術的創発には暗闇が必要なようだ。「洞窟」のような「暗がりフォーマット」は、現在でも劇場や映画館やミュージアムなど、暗い空間で作品を見せる芸術として適用されている。関係あるのか分からないけど、ぼくも夜になると机の灯りだけでマンガを描くのが、かれこれ10年来の癖になっている。今まで暗闇が想像力を触発していると意識したことは無かったが、明るすぎるのはなんだか落ち着かないし、照らす部分を絞ることによる、見える部分への集中が起こる気はする。旧石器時代は今よりずっと暗かったから、月や星、焚火はいっそう明るく感じられ、その分それらのありがたみも大きくなり、想像力や信仰の力へとなっていったのではないだろうか。

アニミズム宿る洞窟春の闇

 著者のデヴィッド・ルイス=ウィリアムズはロックアート研究所を展開してきた考古学者である。セイゴオ先生が人類にとっての「文化の本質的創発性」を語るうえで、アンドレ・ルロワ=グーランやスティーヴン・ミズンと同じく欠かせない一人だ。

 本書を読むにあたっては、後期旧石器時代(LSAと略称する)をめぐる人類史的な知識をそこそこもっておいたほうが楽しめる。千夜千冊本編にはおすすめの書籍がズラリと載っているので、ぼくもさっそく図書館で予約してみた。

 アルタミラの洞窟画を調べたエミール・カルタイヤックは、LSA(後期旧石器時代)の人類には芸術的な創造心などなかったろうと思っていたが、アルタミラの洞窟画を調べ、自分の思い込みを反省し発表した。エライ学者さんほど自分の見解を反省することは難しいのだろうが、本来なら研究というプラクシスには「類」に対する誠実さが必要なのだ。

 ついで1906年、 旧石器時代文化研究の先駆者、アンリ・ブルイユ神父が『アルタミラの洞窟』を、ラマン・エンペレールがラスコーをめぐる『旧石器時代の洞窟芸術の意味』を、ルロワ=グーランの一連の著作を発表したことにより、徐々に洞窟絵画や先史文化の創発プロセスに注目が集まり、さまざまな仮説が立てられ、分析されていったのである。

 ルロワ=グーランは描線の分析して、そこにはある種のまとまりがあると説明した。他にも「工房」のようなものがあった可能性や、壁画から当時すでに社会的な対立が生まれていたのではないかと考える人もいた。

 ミズンは著書『心の先史時代』で、LSAの者たちは心の中に概念のまとまりが映像として浮かんでいて、その記憶を転移する=学習することが、動物描写の表現を可能にしていったというふうに推理した。

 1994年に発見されたフランスの「ショーヴェ洞窟」の発見は研究に新たな展開をもたらした。セイゴオ先生もヴェルナー・ヘルツォークが3D撮影した映像作品《忘れられた夢の記憶》を見てただならぬ興奮をおぼえた。ちょっと落ち込んだほどだったという。残念ながら予告編だけでは先生の感動を追体験することは叶わない。ぼくはTUTAYAにDVDが無いことに落ち込んでみよう。

 「ショーヴェ洞窟」自体は、画像を見ただけのぼくも、ちょっと偽造を疑うくらい素晴らしい。つまりUFOのミステリーサークルよろしく、先史時代の人々の手によるものに見せかけて作ったんじゃないかと一瞬思うほどの「絵心」がある(しかしド素人のぼくが考えるようなことなのだから、発見した人々がすで調査済みだろう)。それくらいなんとも良い味わいをもった、ひたむきな「作品」なのだ。

 不思議なのは何故この洞窟壁画の「人類文化の意伝子」は、その後の新石器文化に継承されなかったのかという点だ。セイゴオ先生は、この創発的表象力を人類史のなかでどのように位置づけ、それを学習の原点としてインストールしていくにはどうしたらいいのだろうかと思索を続け本書に辿り着いた。

 著者・ルイス=ウィリアムズは進化心理学や神経心理学の成果を参考に、後期旧石器人類のグループは洞窟に入っているうちに「アルタード・ステート(変性意識状態)」をおこし、そこに「内在光学現象」が生じていたのではないかと推測した。

 アルタード・ステート(altered state of consciousness:ASC)とは、薬物を使用するわけでもなく、日常の意識から変性意識に移っていくとされる意識状態のことだ。トランスとまではいかない。 内在光(entoptic)については、港千尋さんの『洞窟へ』のほうが詳しいのかもしれない。片頭痛のときなどに見える光学現象のようだ。ぼくは頭痛でなくとも時々粒子的な三原色の「何か」が見えるのだが、アレのことなのだろうか。ボーっとしていたら見えるので、それほど特別なことでもないように思う。じゃあぼくが今までアルタード・ステートだと思っていた「夢と現実の間のような不思議体験」はトランスということなのだろうか。

 ルイス=ウィリアムズの仮説は洞窟の中に「覚醒したシャーマン」のような連中がいただろうことを説明している。かれらがアーティストの起源だというのだ。LSA人類がこのあとホモ・サピエンスに向かっていく段階での、アルタード・ステートの体験とその表象化こそが、「神と人」「世界と人」という認識をつくりだしたのだろうか。しかし著者はこの一連の出来事が実際におこっていたとしたら、そこには同時に「自閉的な意識」の誕生していて、そのことがのちのホモ・サピエンスに「自意識の閉塞感」をもたらしたのではないかとみなした。

 本書は第8章「心のなかの洞窟」で、人類は洞窟の中で心を形成し、同時期に心の中に洞窟めいたものをつくりおきしたのではないかと示唆した。プラトンの『国家』にも、「洞窟の比喩」というものがある。洞窟とは地下世界の内臓なのだ。古代において「そこ」に入る体験は、霊的世界の一部になることだった。描かれた数々のイメージは未知なる世界の道標だったのだろう。

 ぼくは千夜千冊799夜プラトンの『国家』における「エルの物語」の部分を読むたび、国民国家に対する寒々しさを覚えてきたので、洞窟に鎖でつながれた人間が見ている世界がイデアの影でしかないことを表現している「洞窟の比喩」はとてもメディア的に感じた。非常にマスメディア的だ。

 メディアは霊媒なのだから、著者が歴史をさかのぼるアブダクションによって、洞窟で人類の心が形成されたとされたと考えたとしても不思議では無い。ただ、ぼくはもし「自閉的な意識」をもった人々が洞窟の鎖につながれているのなら、現代においての「覚醒したシャーマン」とは、ありもしない悪霊を使って人々を脅迫する金の亡者ではなく、一人でも多くの人を解放しようと闘っている者たちのことなのだと思う。


 ちょっとだけ幽体離脱のような経験があるせいか、胎内と死後の世界へ行く通り道と洞窟の通路はよく似ているように感じる。けれど洞窟とは心の出所ではなく、未知の世界へ行くための通り道なのではないか。「ぼくはここにいる」と思い込むほど、人は洞窟の鎖につながれてしまうのではないだろうか。ぼくはむしろ実は「ぼくはただの通り道に過ぎない」と思うほうが、心は「そこ」を通ってどこへでも行ける気がするのだ。





© 2023 EK. Wix.comを使って作成されました

  • w-facebook
bottom of page