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現代アートとは何か

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada

 千夜千冊1785夜、小崎哲哉さんの「現代アートとは何か」を読んで思い浮かんだことを書いています。



 武臨院のSさん、Hさん、そして〔守〕の師範代だったM師範に、今の千夜千冊と共に駆け抜けることを勧められた。みんなセイゴオ先生と同じ時代を生きていれることをありがたいと感じているのだ。

 花伝所の演習でこれから大変だが、もしぼくが自分に負荷をかけるとしたら、それは演習をこなしながら、マンガを描きながら、バイトもして、そしてこのブログも書き続けるということだろう。もっと大きな意味で言うと、こらからイシスとどう関わり合いながら生きていくか、それを自分に問い、試すということだ。


 最近全く美術館に行かない。人生のうちで一番美術館に行っていたのは、親父が単身赴任で、姉と弟は家を出て暮らしており、母が癌になって仕事を休んでいて、ぼくが引きこもりだった頃だ。ぼくは母が病気の時こそ精神的な栄養となるものとして美術に触れた方がいいのではないかと考えていて、母はぼくが閉じこもりっきりにならないようにとの配慮があったのではないかと思う。しかし見たのは現代アートではなくゴッホとか、日本刀とか、親父の単身赴任先で偶然見つけたコレクション美術館の雑多な品だった。現代アートの面妖でトリッキーな様は、病気の母とビョーキのぼくには荷が重かったので、ぼくらはどこへ行ってもたいしたお土産も買わず、近くの安い温泉に浸かって、長い高速道路を通って家へ帰った。


 ぼくが最初に出会った現代アートは、美術の教科書で見たデュシャンやウォーホルだ。実のところデュシャンの有名なあの作品は便器の形が日本のものとはかなり違うためか、ぼくは最初の衝撃を受け損なった気がしている。ウォーホルもアメリカの日用品に馴染みがないためか、「レディメイド」であることより、「同じものが画面いっぱいに大量に並んでいること」が珍しく感じた。ぼくは高校の美術部で幽霊部員をしていたとき、ウォーホルの真似のつもりで版画を並べたことがある。

 村上隆さんはテレビによく出てたので知っているが、失礼ながらモチーフがヴィトンの財布になったとき「イケてない」「流行ってるからって何でもコラボすればいいってモンじゃないね」と姉ちゃんと言い合った記憶が思い出になってしまった。

 それ以降、現代アートはニュースや新聞の「おでかけ情報」になった。


 しかしそういえば現代アート作品は「なんでも鑑定団」には出てこない。現代アートは「変換」という概念制作の行為とその成果物に値段がついているものなのである。ウォーホルの作品には100億円以上の値がついた。ぼくは算数が苦手なせいか、桁数が大きいと逆に大きさが実感できなくなるのだが、「変換」に価値がつくというのはたしかに不思議な出来事で、その現象についてだけはおもしろいと思う。


 本書は、そのような仕掛けをつくりだした今日のアートワールドの現状を念入りに展示したもので、①マーケット、②ミュージアム、③クリティック、④キュレーター、⑤アーティスト、⑥オーディエンスに分けて、それぞれの特徴を鮮やかに案内しながら、その問題点を、少し辛みを利かせて盛りつけた。加えて現代アートが確立させてきた美術史的な意味をまとめ、絵画と写真に迫っている危機がどんなものかもレポートしている先生オススメの1冊だ。

 ぼくはどちらかというと、ずいぶん前から現代の社会状況を「狂気の時代」と捉えてきたという今夜の著者・小崎哲哉さんの『百年の愚行』(Think the Earth)のほうに興味があるかもしれない。現代アートに関するゴシップとセオリーには全く関心が持てない。でも何とか「わせたかしく」するために、重なる部分から何かを思い浮かべてみよう。


 福岡市の須崎公園問題があるので「迷走するミュージアム」と聞くと、さもありなんと思う。福岡市の新会館建設計画は、人権や表現の自由や地域貢献の配慮とは程遠いものを、マスコミを使って誤魔化している様子が汚い。どう考えても日本全国スッカスカのハコの造りすぎだ。反対に言えば、長期的な価値のあるものを見極め、多様な生命と共生するための想像力が不足しているのだろう。


 今夜のお話でぼくがおもしろいなと思ったのはアイ・ウェイウェイ(艾未未)さん(風貌がチンギス・ハーンに見える…)。見てみたかったなと思ったのはヴェネツィアで開かれた「アルテンポ」展、タスマニアとMONAとパリで開かれたという「世界劇場」展だ。何か感じるものがありそうだった。「あいちトリエンナーレ」やバンクシーには興味が持てない。とくにバンクシーはコントロールの効いた炎上がぼくは好きになれない。先生は美術議論にはフェティッシュが欠けていることを憂慮しているので、やっぱりみんなが「あれが好き、これが数寄」と自由に語れるようになったほうがいいのだろうなとは思う。


 著者はアーティストの肉声もアートになりうること、現代アートがますます政治や社会から切り離せなくなっていることを強調し、ベケットの『ゴドーを待ちながら』を、ボスニア・ヘルツェゴビナの、戦火の中のサラエヴォで上演したスーザン・ソンタグの話で結んでいる。

 「9・11と3・11によって、われわれはディストピアめく現実感覚をどのように表現したらいいのか、いまなお問われているのだ」と先生は言う。著者は現代アートが現実感覚を表現するうえで構成すべきは「インパクト」「コンセプト」「レイヤー」ではないかと応えている。

 千夜本編に書かれてある、杉本さんの言葉がアートだ。ぼくは杉本さんの「滅びることを前提につくる」などという、新たな概念の創造行為とその成果に、いつも心をさらわれている。

 先生は著者のキーワードに、さらに山本耀司さんの「シーノグラフィック」(場面的)と「アングリー」を加えてもいいのではないかと提案した。


 「場面」と「怒り」をお題にすると、福岡の福祉が死んでいることが思い浮かぶ。

 先日スーパーの駐車場でお爺さんを見た。その場で痙攣するような足踏みをしていて、母曰くあれは典型的な認知症の症状なのだという。しかしそのお爺さんは一人で車で買い物に来たようで、自分の車に乗って帰るしかない状況だった。ぼくはお爺さんがスーパーを出るまで見送ることしかできなかった。

 最近道端のいたるところで、大丈夫かな…と心配になる様子のお年寄りを見る。こっちは大きな道路を車で走っている最中なので通りすぎてしまう。きっと今、福岡市ではものすごい人数のお年寄りが、交通事故でも起こさない限り誰にも気にされず、認知症と呼ばれる状態になっては寂しく一人ぼっちで死んでいってるのだろう。「福岡市福祉協議会」やら「見守りダイヤル」やらに電話してみようか、それらがどのくらい役に立つのだろうか…と考えている。福岡市だけでなく、繁栄しているとされる都市部ほど顕著な現象なのではないかという予感がする。

 こんなことを言うとすぐ、収容施設にぶち込んで薬漬けにして大人しくさせればいいということになる。貧しいお年寄りの行先は孤独死か病院で薬漬けで死ぬかの二択なのが現実だ。最近はそこに野良猫や難民のようにIDコードで、犯罪者のようにGPSで、「管理する」ということだけを、革新的かつ手厚い保護として付け加えたいらしい。


 こんな状況で再開発ばかりに金をかけている詐欺師どもに、ぼくは一度も投票したことなどない。彼らのうちの誰も、政治家として認めたことなどない。人から奪った金で贅沢をしながら、人を見殺しにしている人殺しどもに入れる票など、ない。


 教育は大阪からデジタルファシズムによって死に始めているようだ。文科省とデジタル省推進の「考えなくてもいい勉強アプリ」で、このままでは日本の子供たちの多くが、消費するペットから消費される家畜に成長するしかなくなりそうである。

 ぼくは物好きな生き物として日々感じていることが、動機と意識になっていると思う。著者はアーティストの問題意識について7つのフラッグを立てている。なるほどと思う分類だ。


 セイゴオ先生はアーティストが「方外」であること、「数寄」と「作事」に熟達することを期待するという。幅広い意味で捉えたら「わせたかしい」という言葉をつくったT別番は概念作事の芸術家だ。なにせアルスが胸のプロペラをぶん回して「超境」していくのだから…。


境界の破れ案山子の震える手


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