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千夜千冊1790夜、アンディ・クラークさんの「生まれながらのサイボーグー心・テクノロジー・知能の未来ー」を読んで思い浮かんだことを書いています。 https://1000ya.isis.ne.jp/1790.html 翌日バイトが時の夜から朝にかけてはよく眠れない。特に千夜千冊を読んだり、編集学校の何かや、社会的な出来事に刺激を受けて脳が興奮状態にあるときは、眠ろうとしても眠れないので、ぼくはイルカになったつもりで半分の脳で寝て、もう半分の脳であえて色々と思い浮かべることにしている。するとそのうち意識が途切れ眠りに落ち、小刻みに目が覚める。このときすごく時間が経っているような気がしたのに、実際は30分とか10分しか経ってないときがある。たまにその夢なのか意識的な考えなのか、境界が曖昧な状態から、おもしろいことが浮かんだりすることもある。
だからというわけでも無いのだが、ぼくは本当は意識の速さは時間を超えているのではないかと考える。今夜の千夜千冊でセイゴオ先生が著者、アンディ・クラーク氏を評し「思索に速度がある」と言ったのは、そういうことなのだろうか、別のことなのか…。 あれこれの電子装置を身に付けていなくたって、われわれは生まれながらのサイボーグになりうるとクラーク氏は主張している。ここでの「サイボーグ」とは、人間と技術の共生体のこと、生物的な脳と非生物的な回路にまたがって「心と自己をもつような思考推論システム」のことをさすらしい。 今夜の千夜千冊本編では、サイボーグについて初期の動物実験や人体実験の動向、SFの隆盛、ダナ・ハラウェイのサイボーグ宣言など思想面での論理化などが紹介される一方、サイボーグとはやはり機械ロボットの製作、人工知能の開発、ロドニー・ブルックス以降のロボティクスの展開、VRやARやALの研究開発、コンピュータ・ネットワークの設計と密接に関わっていることが語られている。 テレビが言わないだけで、人類サイボーグ化の人体実験は今現在も続行中だ。 そうなったのはサイボーグ性と生物学や脳科学は、親和性が高いとみなされたことが背景にある。大まかにいえば①人間の身体は精度の高いセンサーとフィードバックをもったシステムとみなすことができる点、②脳がやわらかく変形を維持できる点、③人間はある道具を使えるようになると同時に、何かをその道具無しではできなくなるということが起きる点などが、互いに重なるように連続して認められるようになったことが、サイボーグの思想と技術に影響を与えたのだ。 サイボーグを探求する人々は、おおむね人間が「外部の情報とワイヤード(接続)される」ことをサイボーク化の前提にしている。 だから最終的にワクチンの中に無線ナノセンサーと水酸化グラフェンを仕込んで、人を強制的にサイボーグ化し、同時にロボット化してWi-Fi(電磁波)でいつでも簡単に殺せるシステムになったというわけなのだろうか…。 SFチックな機械と人間の融合による万能化を夢見てきた人々、あるいは人工的な体に脳ミソをつないで永遠に生きるのを望んでいるような人々はこの地獄をどう思っているのだろう。大勢を殺して、残った資源で自分たちだけ長々と生きる予定だから成功なのだろうか。それともこんなはずではなかったのだろうか。数々のSF作品は、このような管理主義社会化に警告を発するファンタジーだから興味深いのであって、多くの人々は税金を使った終末カルト計画の実行など望んだ覚えは無いはずだ。 クラーク氏はスマホを使いこなすことやクスリで体調を変化させることがサイホーグ化の前段階ではないとして、それらが「サイバネティック・オーガニズム」の発露だと見てもらっては困ると言っている。もっと「存在」というものから哲学的に思索することを希望しているようだ。 ちょうど日本語訳をした池上高志さんもアーティフィシャル・ライフ(人工生命)の研究者で「自律性」と「相互作用性」と「存在感」を生命の特質と考えていた。 アーティフィシャル・ライフ(AL)は必ずしもサイボーグの思想や技術には重ならないらしい。コンピュータなどに生命現象に似たふるまいを創発させることによって、ぼくらが知っている生命(life-as-we-know-it)を、「可能な生命」(life-as-it-could-be)という大局的な視点で捉えることが大切なのだという。 可能な生命というのが、一体何を可能にするのかよくわからないけれども、セイゴオ先生と池上さんとの対談を聞いて、アーティフィシャル・ライフというのは、人間とは何かということを科学的に理解しようとする学問であることがなんとなくわかった。 イタリアでも知のサークルがあり、その組織のボスはやっぱりマフィアみたいだという話もおもしろかったが、ぼくとしては〔守〕コースは「たくさんのわたし」と「コップ」のお題が鍵になっているというお話と、欠如がダントツな何かへ飛躍するというお話が興味深かった。 レフ・ヴィゴツキーさん(1896~1934)は天才的な認知心理学者で、ドミナント反応の研究、障害教育、芸術心理学、発達心理学にとりくみ、人間の才能を「認知道具」として理解すべきだという見方を提唱した。また多くの学習は「知の転移」によってダイナミックになっていくという確信していた。先生自身も大きな影響を受けた人物だと仰っているので、まだされていない千夜千冊化が楽しみだ。 ヴィゴツキーさんは「足場作り(Scafolding)」を提唱した。大人による子どもの発達に合わせた学習支援のことだ。著者はこの概念を道具一般にまで拡張したようだ。 「わたしたちの心は融合するように作られた道具であって、道具がわたしたち自身なのである」と著者・クラーク氏は書いている。ぼくなら「ぼくたち自身が方法なのだ」と言うだろう。そのほうがたとえ便利な道具を使える幸運や機械に恵まれなかったとしても、ずっと自由になれる気がする。 ダニエル・デネットのSFでは、ある秘密実験を受けた「私」が目をさますと、脳が外部の栄養タンクに移し替えられていて、無線回線で自分とつながっているらしいことを知らされる。食欲を満たそうとしたり何かの行動をおこそうとすると、「私」がここにいるのかタンクにいるのか自分でも分からない事態に陥る物語になっている。奇妙なこと極まりないが、すでに現実でもMITでは似たような実験がなされている。 クラーク氏はこれらの話から、そもそも「プレゼンス」とは何か、また「テレプレゼンス」とは何かということを問いたかったようだ。プレゼンス(presence)とは存在感のことで、どこかに進んできたときにそこで感じる現前性だ。それに対してテレプレゼンス(telepresence)は、遠隔地でも臨場感をつかめることをいう。
最近のことに当てはめて言いかえると、「今ここにある現実」とは何か、「リモート」とは何かということになるだろうか。ぼくも結構な頻度で14離の仲間とリモートで話しているだけあって、これは考えてみるとけっこうな難問だ。なにせ昨日はその場の勢いで、年末の特別企画と称して、年末の特別企画と称して、12時過ぎまで歴史と哲学と資本主義とアートを編集で結び、あっちへこっちへ蛇行しながら語り合った。だが画面越しでも、ぼくらの場合はあくまでお互いの関係があるから起こる場の動きであり、感じれる臨場感や存在感なのだという気がする。
哲学者たちは「今ここにある現実」の「際」や「臨界点」を確認する、ぼくら自身の認識の根本的な限界を「心身問題」と名付けて延々と議論を続けている。一方著者は、神経系への刺激や生理学のデータから「間身体性」などを取り出そうとする事例に興味を注いでいる。
ところがここで注意しておかなけれはならないのは、データを手に入れたとしても、それを理解するぼくら自身がナマなので、解釈には限界が出てくるだろうということ。こういった実験データは別々の条件と技術と目的によって組み立てられてきたものが多いので、それを合成したり統合したりする方法の思想をもたなくては「今ここにある現実」についてどんな決着をつけていいのか、わからなくなってしまうということだ。
そこで著者は、自分たちが継続的な「生まれながらのサイボーグ」でありつづけるしかないのではないかと言う。
「人間とは何か」ということに関してはぼくも興味があるものの、ぼくはサイボーグにはなりたいとは思わないので著者とは方向が違うのかもしれないが、「今ここにある現実」についてどんな決着をつけていいのかわからなくなるというクラーク氏の状態は、今のぼくとなかなか似ているような気もする。かくてぼくも言うのだ。ぼくら自身が編集する者でありつづけるしかないと。
忘れがたく、忘れたくない一年となった。すっきりはできないし、凸凹なままのぼくである。うっかりや、ついついやってしまうことも多い。けれども離を退院し、花伝所での七転八倒を通じてわかったことがあるのだ。”これ”は指南なのだ。ずっとずっと指南だったのだ。
去年今年目心前後に南指す