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千夜千冊1820夜、ジューン・シンガーさんの『男女両性具有Ⅰ・Ⅱ性意識の新しい理論を求めて』を読んで思い浮かんだことを書いています。 https://1000ya.isis.ne.jp/1820.html まだ風邪のだるさが抜けなかった月曜ごろ、親父がついに医者から余命半年との死刑宣告を受けた。数値が悪いのでもうすぐ死ぬというのだ。あれだけ抗癌剤を打って患者の身体をボロボロにしておいて、薬を止めたから死ぬのだとでも言いたげな病院の対処にはあきれるばかりだ。父より母のほうがショックを受けてしまい、ほろほろと泣くので、ぼくはこういう時こそ食事が大切だと指南した。すると母は図書館の本を参考に異様にやる気を出してしまい、レモンを大量に入れた酸っぱい野菜ジュースを大量に作るものだから、これはイカンと思って別の食事療法が書いてある本を渡した。今はその本に母も親父も納得してくれて、ようやく無理のない療養ができそうな目途がついた所である。 加えてここ二三日は選挙カーがうるさくてイライラしている。グラフェン血栓の患者を運ぶ救急サイレンをバックミュージックに、税金椅子取りゲームに精を出す厚かましさに腹が立つ。ワクチンでお年寄りを殺しまくっておいて、何がお年寄りのための政治だ。女性たちを流産や不妊に陥れておいて、何が少子化対策だと思う。 みんな選挙には行くのだろうか。ぼくは日本の政治自体が、もはや日米合同委員の会命令をマスコミで垂れ流すことによる既成事実作りだけで進行している状態なのではないかと思っているが、虚を行うにしても、あまりにも国民の実感と乖離していれば、それが人々の目覚めのキッカケにはなり得るだろうと考えている。何もしなければ、規制緩和や改憲やによって日本の国土と日本人の財産、日本国民の生命までが貪り食われるという事態がさらに深刻化していく。何よりぼくはただ、声を上げている多くの無名の人々と同じく、大事な人の命を奪った自民・公明・維新以下売国カルトを地獄の底に叩き落としたい気持ちになっている。 志賀島のカジノ誘致問題について話すと、誰もが知らなかったと驚くし、快く署名をしてくれる。つまりまだ計画自体を知らない人が多いのだろう(紙のほうが手軽にできる面があるらしいが、オンライン署名は住所を書かなくていいし、このサイトは手続きが3段階に分かれている点が若干ややこしいが、某有名署名サイトと違い、他の運動のメールが届いたりはしないという利点がある)。
14離の仲間に直接話したワケではないけれど、先日の会議でzoom女将のHさんが千夜千冊0638夜、樋口一葉の『たけくらべ』について発表したとき、「地方は開発されたとたんにどこも同じになるのが日本の病理だね」という話になった。曳瞬院のお侠な別番からは、コンビニやショッピングモール、チェーン店など、全部外から持ってくるからどこも同じになるのだという、スカッとするようなご指摘があった。対してOさんからは、日本人全体が日本と言えば忍者とか侍しか出てこないぐらいに、内なるものを引き出す力が衰えているという問題提起があり、そう言えばぼくの場合は、ぼくたちにとって侍とは何なのか?単なるネタなのか?という問いから『侍JOTO』を描き始めたのだよなぁということを思い出した。 今夜のお話では、世界が男(アダム)と女(イブ)から始まったのではなかったとしたら、他にどんな存在が想定されていたのかが、主に神話を通じてアレコレ語られている。 どうやら西欧の両性具有は魔女や妖精的な扱いをされてきたようだ。率直に言うと「男女」(おめ)やヘルマフロディトスは気味が悪いと感じてしまった。何というか、「正当な異性愛者の男女」に対して、両性具有が「奇妙な異端者」のイメージになるように意図的に編集されているといった印象を受ける。ベラスケスが《ラスメニーナス》に、めずらしい生き物として小人や黒人を描いたように、長らく西欧においては両性具有は好奇の目にさらされる対象だったのだろう。
反対に開けっ広げなヒンドゥーの神々がエネルギーに満ち溢れ、観音さまに心惹かれるものがあるのは、人々がこれらを憧れをもって編集してきたからではないかと思う。たとえば観音さまや弥勒菩薩の像や仏画を制作した人々は別に両性具有描こうとか、男でも女でもない超人を作ろうと思ったわけではなく、ただただ自分たちに力を与えてくれそうな、あるいは心のよりどころとなるような美しい神々の姿を作ろうとしたのだろう。つまり代物や依代としてこれらを編集してきた人々は、両性具有という言葉を必要としないほどに、ある意味外見の性別に左右されずに、人間の内面を見つめることが出来ていたのではないだろうか。この西と東の男女観の違いは、過酷な砂漠の環境が、父をリーダーにして外敵と戦う家族や一族をベースに共同体を作らなければならなかったことと、じっと静かに物事を観察する時間があった森の共同体との違いが影響しているような気もする。 ぼくは「両性具有者」(androgyny:androgynous)そのものには興味は無いが、最近はバーンスタインや白洲正子のように、自分の性別に拘らず色々な人や物事に恋することができる人のほうが魅力的に感じるようになった。この前アフロール艦長が「恋をしないと女はおじさんになるし、男はおばさんになっちゃうんだよ」と言っていたのには「なるほど(笑)」と膝を打ったものだが、恋をする対象は別に異性である必要は無く、性的な対象でなくたっていいのだろうと思うのだ。 またアニマとアニムスの話が出て来たけれど、ぼくは魅力的な人間ほど、女性なら男性性を、男なら女性性を、自身の内面に上手く取り入れ調和させることができていると思う。イシスでも師範代や師範には物腰やわらかな男性や、芯が強く凛々しい女性が多い。先日感門の盟で前座を務め、本楼とzoomの参加者をつないでおおいに沸かせたジャイアン師範も、見た目はスーツを着た山伏のようだが、語り口はとても親しみやすくて朗らかだ。知識の出し入れは高速自在なのに、そんな凄さはおくびにも出さず、照れ笑いしているところなんかがとても素敵な人だと思った。 アニマというとぼくの教室名が「アニマ臨風教室」だが、この教室名は女性性ではなく、アニメーションの語源となったアニミズムや、ラテン語の魂・霊魂・生命といった意味合いの方からいただいた。この教室から49破へ進んだ学衆さん達がもうすぐ花伝所に入り、師範代になっていくと思うと感慨深い。 感門之盟を見たら、なんだか早くイシスに戻って破の師範代をしたいなぁという気持ちがムクムク湧いてきてしまったが、今はマンガに、家族のことに、地域のことに…と、他にやるべきことがある。それらを14離で持ち上がった、小乗でも大乗でもない「中乗仏教」活動へと昇華していけたらいいなと思った。 Oさん曰く、現代において小乗を突き詰めていくと「情けは人の為ならず」になっていき、大乗でなくてはと思い過ぎると「世のため人のため」という義務感が重荷になるのではないかというのだ。だからその間にある「夢中なれるもの」にみんなで乗り合おうというワケだ。その時いかにして故郷や母国を守りながら、眠っている歴史や文化の深い魅力を引き出すか…というところに工夫が要る。千夜千冊の『たけくらべ』には、樋口一葉にとっては一言一言をどう選ぶかという言葉の工夫が生き方であり、世間との闘いであり、文芸的なるものの多様性の確認だったとある。 母の手を両手で包む春夕焼