百代の過客
- Hisahito Terada
- 3月12日
- 読了時間: 6分
更新日:3月20日

千夜千冊夜・歴象篇、ドナルド・キーンさんの『百代の過客』を読んで思い浮かんだことを書いています。
カミカゲ師範代の「破」の突破式が終わった。来期はどうされるのだろう。アニまるズはみな達者にしているだろうか。もうすぐ春のお彼岸だ。先生がこの本と出会ったのも、芭蕉が『奥の細道』へと旅立ったのも、ちょうどこのくらいの季節だったのか、序文にそんな句がある。
福岡では3月23日に選挙がある。現県知事は自民党である上に「ワンヘルス」などと言ってるから、アメリカ民主党やWHOのやってきた売国殺人金儲け路線を日本で長々と続けたいらしい。票を入れたい人間が正直いないが、党は置いておいて、という吉田幸一郎という人がまだマシではあるようだ。
気になるのが、吉田幸一郎という人は「ワンヘルスを見直す」と言っているが、2019年からのコロナパンデミックという詐欺とワクチン+電磁波によって、60~80万人もの日本人が殺されている可能性、日本の土地や資源、米までもが、海外から買いたたかれていること、組織的な人身売買や、ウクライナ戦争の実体が明らかになってきている現在の政治状況を、どれくらい理解して見直すと言っているのだろうか。
トランプ大統領になって、日本もケムトレイルがなくなったという人もいるが、ぼくの地元では相変わらずだ。明け方にかけて頭痛がして、その後しばらくすると救急車のサイレンが聞こえるので、スマートメーターやセルタワーを通じて、あの時間に強力な電磁波で攻撃し、人殺しをしているのだろう。ぼくはセルタワー等を破壊して取り除き、5G6G7Gなど、生物に有害な電磁波や化学物質を禁止しない為政者は信用しない。
しかしあとの二人のうち、藤丸貴裕という人は学校教育にAIを導入して体罰を認めるとか、人口を減らすべきだとか、超管理社会を目指してますと公言しているようなものだ。新藤伸夫という人は、まだ太陽光発電だとか万博誘致だとか言ってる。この二名は現県知事への対抗票を分散させる役割なのではなかろうかと思われる。
というわけでぼくは現知事に退場してもらいたいので、ひとまず吉田さんに票を入れてみようと考えている。
今夜のお話は、日本人独特の日記の書き方、旅感覚がどのようなものであったのか、日本人以上に日本の歴史や文学に精通した、ドナルド・キーンさんの格別の案内に、セイゴオ先生と一緒についてゆくという格好になっている。
今夜は冒頭の入り方からして洒落ていて、先生は『百代の過客』というタイトルに肖って、芭蕉が人生を旅に譬えたように、本との出会いを旅に見立てているようだ。旅日記の本について、旅先での思い出を懐かしむように紹介している。
ぼくは本屋で本を買う時も、すでに目当てのものが決まっている場合がほとんどなのだが、旅に出るときは、旅行のプラン通りの景色を見ることよりも、現地の人々との思わぬ小さな交流や、五感を通じて未知の体験をすること、偶然の出来事を期待する人間なので、こんなふうに旅めいた感覚で本を買って愉しむ方法があったのかと驚いた。今度どこかへ一人で出掛けることがあったら真似してみたいと憧れる。
本書に出ている有名な日記は、今までの千夜千冊にも出ていたので、タイトルや大まかな内容は知っていたものの、紀貫之が女房に偽装して仮名の日記を綴ったことが、女性たちが日記を書くきっかけとなっていたことなど、ぼくは今まではあまり意識してこなかったように思う。貫之のカムフラージュが、『蜻蛉日記』や『和泉式部日記』、『紫式部日記』や『更級日記』など、世界文学史上でもめずらしい王朝の女房たちによる「日記文学」を生み出したのだ。
また、ぼくは日記文学や旅日記をつくってきた日本人は、べつだん目新しいことを目指そうとしていたのではなく、古人が求めるところの面影をひたすら辿って求めようとしたということに共感した。
とくに山崎北華という武士が、蕉風すたれつつあるころに綴ったという『蝶之遊』について、日本にはイタロ・カルヴィーノを俳諧にする奴がいたんだと先生が狼狽したというのが気になった。というのも、ぼくは最近カルヴィーノの『まっぷたつの子爵』と、白川静さんと梅原猛さんの『呪の思想』、セイゴオ先生の『法然の編集力』を読んで、悪人正機説の「悪人」や「狂狷の徒」がどのようなものであるかが、ようやく見えてきたところだからだ。
『法然の編集力』で先生と対談した町田宗鳳さんは、法然を継承した親鸞が「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と言った「悪人」とは、悪いことをする人間のことではなく、自分の中の悪を自覚した人のことなのだと言っていた。白川静さんによると、孔子は中庸の次に良い人間とは、智恵者(頭の切れる人)ではなく「狂狷の徒」なのだと言ったらしい。もともと「狂」には「進んで取る人」、「狷」には「死んでも決してそんなことしませんという潔癖症の人」という正反対の意味があった。「狂狷の徒」とは「まっぷたつの子爵」なのである。カルヴィーノはキリスト教圏の人ながら、人間が善だけではなく、善と悪の二つを持っていることを自覚することの大事さを傑作メルヘンにした。
また、孔子は狂狷の徒を愛したけれど、昔と今の「狂」は違っていて、昔の狂は「肆(し)」=自由闊達のことだったが、今の「狂」はただの「蕩(とう)」=自己抑制のない群不逞の徒に堕ちてしまったと嘆いたという。知って少し驚いたが、大集団で諸国を寄食して廻った孟子も、蕩のような存在だったのではないかと考えられているようだ。
念願のというワケでもないが、最近ぼくは畑近く道のゴミ拾いを行った。少しの範囲を掃除するだけで、あっという間に3袋がいっぱいになった。一番多いのはコンビニの袋に、コンビニで買った飲みかけのお茶やジュースが入ったペットボトル、空き缶が入っているというパターンだ。次に多いのが買った弁当のゴミ、菓子パンの袋、カップ麺の容器、肥料の袋、紐や波板など壊れた農具の破片。驚いたのが靴、ポケットティッシュで隠したつもりらしい野糞である。
ここら辺は農地なので、農家が売り物にならない野菜を畑の隅に置いている(それは問題ではない)のだが、それを目当てに来る人間がいて(それもいたしかたない気もするが、時々ぼくらの畑の作物が盗まれることもある)、捨てられた野菜を貰いに来る人間が、来たついでにゴミを捨て、あふれかえったゴミを川のほうに押しやるので、水鳥のいる川がゴミだらけになっている。ぼくは水鳥たちが不憫である。迷惑防止条例などにも違反するのではないか。あまりに酷ければ、どこかの機関に相談するなど、なんらかの方法を考えたい。
ぼくはこんなことをしているが、だからといって自分が善人などとは全く思わない。自分はよく色々なことに怒っているし、文句も言うし、人を憎み恨み批判し、呪うことさえあるので、悪人正機説からすれば、ぼくは悪人なのだろう。問題はどのような「狂」であるかなのだ。白川さんや梅原さんは、井上ひさしさんや瀬戸内寂聴さんの活動を例に、むしろ狂狷の徒でなくては、詩人や文学者にはなれない、文学とはそういう社会的関心を持たない限りは意味のないものだと仰っていた。ならばぜひとも狂に準じて遊侠の徒となりたい。
そういえば『呪の思想』は、図書館で目についたものをなんとなく手に取ったので、偶然的な出会いだったのかもしれない。今夜のお話で、本を読むとは、著者の旅が読者の旅になるということをまざまざと実感した。ぼくも今、先生の求めるところの面影をひたすら辿って求める旅の途中である。
トランクに新書三冊春の空