
ワクチンについて「副反応で人が死んでる」ことはありうるとは思えても、「コロナ(Covid-19)が存在しない」ということが信じられないらしい。
つまり式に出たYさんと、Oさんと、同じ院のNさんは「Covid-19なるウィルスが存在する」と思っている。そしてOさんは10月に2回目のワクチンを接種する。Yさんはヨーロッパでは、ワクチン接種が嫌なら48時間以内の(簡易ではない)抗体検査やPCRをすれば、それがワクチンパスポート代わりになるから便利だと言っている。しかし(簡易ではない)抗体検査は、ヨーロッパでも約6千円、日本だと3万円もするらしい。月給が5万も無いぼくにはとても便利とは言い難い。第一たとえ安くても、グラフェン入りのマスクやキットを強要されるとなると有害だ。
信じられないという人は、リンクした映像や記事の内容を、ちゃんとは見ていないのではないだろうか。離学衆にも、同じ季のメンバーにも「認識の違い」というものがあって、厳しい現実に直面するほど、その差異が鮮明化する。「資本主義問題」の会合に出た別の季のIさんとSさんのように「一緒」にはなれない人もいる。なんであの人は重箱の隅を突くみたいに、どうでもいいことに拘るんだろう。自分には学識があるのだと言う自尊心かな。それにしても年輩Iさんに対して失礼な言い方だった。
近くても重なれない人もいるのだなということをしみじみと感じる出来事が続いた。先生もぼくと同じような寂しさを感じることがあるのかなぁ。
唯一救いなのはFさんがワクチンを打たないと表明してくれたことだ。また、ひょっとしたら何も言わなかった他の人たちも、ぼくの話したことを信じてくれているのかもしれない。思いとどまったり、考えを変えてくれた人もいるのかもしれないと思える兆しがあった。
「陰謀論」と言うけれど、本当はぼくはこれが「一番厳しいパターンの現実」だと思う。そう認識しないとその現実に対して「ではどうするのか」という問いを立てられないし、動くこともできないのではないだろうか。しかし14離のメンバーで直接ワクチンパスポートや、強制接種の先にあるデジタルファシズムに抗う何かができるようにするためには、まだまだ時間がかかるか、見込みが無いのか、分からない。
何もしないよりかはいくらかマシだったのではないだろうかとは思うけれど、世界を編集していくための、ひたむきさみたいなものを欠いてしまったのでは、ともに活動していく意味を感じない。また切実であったとしても、互いに「わたしのことを分かってよ」と言い合っているだけは永遠にそのままだ。ぼくの何かを…方法を変えないといけない。暫く孤独になって悶々とした方がいいのかもしれない。