top of page

知性の顚覆

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada

千夜千冊1792夜、橋本治さんの「知性の顚覆 ―日本人がバカになってしまう構造― 」を読んで思い浮かんだことを書いています。 https://1000ya.isis.ne.jp/1792.html  ぼくはヤンキーが嫌いだ。『ホットロード』みたいな暴走族のことではなくて、先生の言うような「不良」や「本音」をオモテにしてもそれが不良に見えなくなるインチキ社会のヤンキーが。特に権力とつるんでうまいことやっている、嘘まみれの人殺しが。  ツイッターで連中の御主人様にとって都合の悪い情報が流れると、北朝鮮がミサイルを飛ばしたり(もはや実際は飛んでないんだろうけど)、地震や放火や殺人が起きたり、タレントが結婚したり離婚したり不倫したり死んだりする。テレビ業界というのは悪魔の巣窟だから、西に東に南北に芸能人になりたいという子どもがいたら、番組のネタ作りのために殺されたくなかったらやめなさいと言ってあげたほうがいい。

 著者の橋本治さんが言っている「ヤンキー」とは、そういう犯罪者集団より、まだ救いようのある人間という意味なのだろうか。ぼくは日本のヤンキーとアメリカのヤンキーは別物であるように思うし、日本の反知性主義とアメリカの反知性主義も違うように見える。分類すると、日本の反知性ヤンキー奴隷集団の主人はアメリカ左派(バイデン)で、アメリカ反知性集団(トランプ)は右派なのではないかと考えている。しかしさらに上から彼らを支配している金持ちどもは、昔から両方立てで互いを争わせて利益を吸い上げるのが常套手段なので、右でも左でも真ん中でも何でも有害であることに変わりはないのかもしれない。今のところのぼくの見方によると

トランプ=共和党=資本主義

バイデン=民主党=社会主義=国家資本主義→自民・維新・公明、中国共産党とグル

という感じで、どちらもNWOの人口削減と環境破壊に至る。  日本が、知性主義も反知性主義もタテマエとホンネの衣の中に隠れている「半知性主義」と揶揄されているとは知らなかった。橋本さんはこの半知性主義なんかにとどまっている日本がガマンならないのだった。たしかにとんがった知性や超反知性にも突っ込めない状態というのは、ぼくもつまらないと思う。  セイゴオ先生曰く「対比」と「ひねり」と「批評」を世の中に対しても、知の見方についても執拗に貫くのが橋本さんの流儀なのだ。  今夜の千夜千冊はところどころに「おや、ふむふむ」と思うところがある。橋本さんは大学の卒論で鶴屋南北の、虚実皮膜を「綯いまぜ」にする方法論を扱ったそうだ。1993年に「芸術新潮」に連載が始まった『ひらがな日本美術史』では、日本の「オーソドクス」を浮かび上がらせた。オーソドクスとは基準ということだが、もう少し深く見ると「準」(なぞらえ)とは何かということで、そこには「擬き」が躍如する。 ぼくは特に川端龍子さんの作品がいいなと思った。小さな画像をチラッと見ただけでも、水の自在な動きをあらわした墨のかたちが心地いい。本物をじっくりと眺めてみたいし、俳句と一緒に四国を周ってみたくなってしまった。  

 橋本さんは奇想より、あえて「ソフィスティケーション」をまっすぐ捉えようとしたのだ。  ソフィスティケーションというのは「ソフトにする」「洗練する」ということだ。日本は古代から中国の思想と文物と技法を輸入してきたが、今と違ってグローバルスタンダードをへえへえとそのまま適用するのではなく、苗代を用意したり、社稷(しゃしょく)にヒモロギを囲ったり、中国服ではない和服(着物)を工夫したり、漢字ではない仮名をつくったりした。  橋本さんはそうした歴史を観察して、日本のソフィスティケーションには「準え」があると見たのだ。  一方橋本さん自身はウガチに富んだ変な小説を書く作家でもあったようだ。穿(うが)ち には色々な意味があるから、これは作品を読んでみないとわかならそうだ。社会学者の橋爪大三郎さんが橋本さんを「一人で藤原定家、契沖、本居宣長、近松門左衛門、鶴屋南北、福沢諭吉、小林秀雄を兼ね備えたようなひと」と評しており、セイゴオ先生も橋本さんが仮面(ペルソナ)をつける必要がなく、いつだって何にもなれる「たくさんの私」状態だったのだと仰っている。こんな人がいるんだなぁと、ぼくも惹かれて『弓と禅』と一緒に、今借りれる橋本本を借りてしまった(人気で予約が要る)!  ヤンキー的なるものがなぜモンダイなのか。橋本さんは、ヤンキーは自分が大事なので自分の自己表現としての「不良モード」や「本音モード」になり、それが反知性主義とつながってしまうのだという。  現代の「劇場型社会」はそうした「不良モード」や「本音モード」を演出しているんだろうと思う。不良で反知性の小泉純一郎のような政治家を劇場型社会のヒーローにして、自作自演の「問題と闘っている」風のショーをしていれば、過剰な生産と消費が地球環境を破壊し尽くすという問題の根っこ、つまりぼくらの生き方や価値観を根本的に変えなければ変わらない問題から目を背けれるので、金儲けさえできればいい連中には都合がいいのだろう。

 橋本さんは、自分大事ヤンキーが流行しているのは、勉強をしている人たち側がぐらついているか、へなちょこにしか語られていないからだと思い至った。勉強が嫌いがカッコイイと見なされてきたのは、若い世代が好きになれる勉強が日本に失われてきたからだと思うようになった。   ここらへんは最近は演出の仕方だけ変わってきて「勉強ができること」や「技術があること」はもてはやされるようになってきている。けれどもやり方はぼくが子供の頃とちっとも変ってない。日本の今の勉強は、NWOの優秀な奴隷になるための情報を丸暗記し、テスト(クイズ番組)や討論(ワイドショー)で上が用意した「正解」を取り出せるようになることであるようだ。GIGAスクールは学校のさらなる一律クイズ番組化に推し進めそうである。人員削減+デジタル化を進めて、人口削減しても便利な社会が作りたいらしい。  いつからこんなふうになったのかと考えた橋本さんは、ついに明治維新のころにまで戻ることとなった。明治の日本に理想を描きたかった福沢諭吉は、当時の人民の無智を問題とし、この無智をバカ呼ばわりし、バカにならないためには学問をしなさいと言った。そしてバカは学問で直せるだろうが、それができないバカは力で駆逐するしかないと結構際キワなことを言ってのけた。  ただし福沢諭吉は、当時の日本人にはモラルはあるだろうとみなしていた。モラルというのは倫理のこと、「道理」や「道」のことだ。けれども道理や武士道だけではいいように利用される可能性もある。福沢はその隙のような部分を学問で埋めなさいと言った。学問とは知のこと。すなわち「学問のススメ」は「道+知」をススメたのだ。  しかし橋本さんは、現代は明治の頃より格段に「道理」や「道」が廃れてしまっているのだということに気が付いた。

 なぜそうなってしまったのか。日本人のモラルが「上からの提供モラル」になってしまったこと、それが経済社会の数値寄りの蔓延によって推進されてしまったこと、それを企業社会がブラック呼ばわりされるのが嫌で衛生消毒ばかりするようになったこと、そこにアメリカの軍事財政の仕組みを浸透させられたことが大きい。  さらに「自己主張」が福沢諭吉の「立身・立志・立国」に結びつけられてしまったことが、この体たらくをつくるのに一役買ってしまった。ぼくも金を稼ぐことや有名になることが「正しさ」や「偉さ」になったことが、日本人を金と権力の奴隷にしたのだと思う。  ぼくは「馬鹿」が好きだ。『侍JOTO』の始めのほうでは、阿武二さんが天ちゃんを馬鹿よばわりしている。ただ、ぼくが好きな馬鹿は、現代の「バカ=反知性ヤンキー」とは真反対のようである。『外は、良寛』を読んだ今なら、その馬鹿とは良寛さんの「大愚」や、宮沢賢治の「デクノボー」のような人だと思う。


夜明け前道のはずれの梅白し


 

© 2023 EK. Wix.comを使って作成されました

  • w-facebook
bottom of page