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神は、脳がつくった

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada

 千夜千冊1786夜、E.フラー・トリーさんの「神は、脳がつくった」を読んで思い浮かんだことを書いています。

https://1000ya.isis.ne.jp/1786.html  今夜の千夜千冊は神にまつわる様々なお話が、分野を越えて紹介されている。ぼくは先生がうまい言い草だというモンテスキューの「もし三角形に神がいたのなら、神には三辺があったろう」の三辺が何か気になっている。でもまあ頂点しかないより三辺あるほうが気分は良い。ダーウィンの宗教は犬が飼い主を崇めている感情に似ているという名言はワリと普通だと思ったけれど、アリスター・ハーディさんの千夜『神の生物学』を読むことで測度が変わった。  今日の宗教学では、神は「人間を超越した威力の持ち主」で、その神はたいてい「人知ではかることができない隠れた存在」だということになっている。部族のリーダーは、自分がその「隠れた存在」と交信していると思ってもらえるようにふるまってきたわけだが、現代社会でもそういう教祖はいたるところにいる。人生いろいろ、神さまいろいろ、だ。  国連のSDGsは神々を「普通のちょっとかわいそうな人間」にしてしまったし、ぼくらの内なる神々をAIという絶対神に置き換えようとしているのだが、デジタルファシズムを進めている日本政府と自公維新と官僚機構は、便利・利益・効率しかアタマにないようだ。  かつては神々がいろいろだったように、人と神との付き合いもいろいろだった。人間は神を怖がり、押し上げ、聖像化し、犠牲を捧げた。神を蕩尽することもあった。サドやニーチェやバタイユの無神論は、反神論ではない。人類と神との戯れは、体毛を失った人類の毛づくろいのようなものだという説もある。日本の神々であるマレビトは、トワイライトな道端や村の境目に気配を残したし、身近な人間に宿ることもあった。  神にまつわるあれこれが多様なことは、学問する側からすると結構な大問題のようである。  第一にどうやって人類の間に神という存在が出現したのかという、進化史と文明史と精神史がつながらない。第二にそこに神々の像やイコンなどの造形史や表現史がまざらない。第三に、宗教戦争や迫害など、信仰の競いあいが神についての解釈を変えてきた歴史が浮かび上がってこない。先生と同じく、ぼくもとくに気になるのは、造物主(デミウルゴス)について、古代宗教や古代哲学が紆余曲折したことについて切りこめないということだ。  たしかに今日の宗教学は先生の言うようにユダヤ教の預言、ヒンドゥイズム、仏教、プラトン哲学、グノーシス、ヘルメス主義、初期キリスト教を同じ「地」の上で語れるようになっていない。  神々の物語にトポス(神の居場所)が必要だったことも議論されていないことについて、先生は2018年に世界遺産に登録された、トルコの世界最古の遺跡ギョベクリ・テペ(Göbekli Tepe)をあげている。ぼくにとっては昔テレビで見て以来の再会だ。この遺跡が「人類最古の祭祀場」であれば、農業が定着するにつれ収穫のための信仰が深まり、豊饒や産出の神々がつくられていったとされる定説が覆り、神々が先にトポスに生まれ、その周辺から農業が形成されていったことになる。となると文明の発祥は現代人が考えるほどゴリゴリな合理ではなかったということになるのではないか。彼らはなぜ高度な技術をもって、全然アートしていたのだろうか。ひょっとしたらその根底にあったのは、子どものような好奇心や探求心なのかもしれない。  本書はタイトルにもあるように「脳の変化が神をつくった」という内容のお話である。6万年前の「出アフリカ」から4万5000年前にシベリア到達のあいだのどこかで、ホモ・サピエンスは脳の変化によって、神々と言語を捻りだしたというのだ。  しかし、言語がどのように形成されたのかという問題は、そもそも「心」がどのように形成されのたかという問題で、「心が先か、言葉が先か」かはいまだに見極められていない。  だから今夜のお話は「心が先か、言葉が先か、神が先か」という三つ巴の問題でもあるのだが、その三つ巴の前に「脳がパターン認知力をもつようになったかもしれない」というのが、本書のE・フラー・トリーの推す仮説だ。脳のネットワークが生み出した「パターン認知」が、人間の中に神々を胚胎させたというのだ。  パターン認知とは、「ある情報の中からパターンを読み取る力」と考えるといいと思う。たとえば最近のマスコミのヤラセはワンパターンなのでとても認知しやすい。  ともかく脳のネットワークに生じたパターン認知力が「心か、言葉か、神か」をなんらかのセットでつなげたのではないかということだ。  実は今夜のお話のタイトルを聞いて、神秘大好きのぼくはあまりワクワクしなかった。「神は、脳がつくった」なんてジョーシキ過ぎて普通だなぁと感じてしまったのである。こういう時こそメトリックちゃんの出番だ。一つひとつを読みほぐしていくと、「なぬ?内なる神のパターン=型だと?」と、俄然おもしろくなってくる。  先生の仰る通りデカルト以来の「心身問題」から科学的に脱するにも、ぼくの考えるようにマスコミの仕掛けて来る幻想から脱するにも、パターン認識は有効な見方だ。  これまも千夜千冊はいろいろな「神もの」をとりあげてきたが、脳科学から神や宗教の出現を解こうとしたものはあまり扱ってこなかった。このアプローチにはよほどの研究力がないと危なっかしいらしい。  そうしたなかでは、本書は比較的穏やかに「脳の中の神の出現の可能性」を解いていたが、神や祭祀や宗教が組み立てられていった背景、そのトポス性、その言説性、その多神性と一神性のちがい、啓示や悟りの自覚のしくみなどには、ほとんど言及できていなかった。  千夜千冊本編では、セイゴオ先生は脳以外にもさまざまな部分が神をつくったと言い、どんな学問や思想もタンパク質や細胞やウィルスまでさかのぼるべきなのだと明かした。一方で神については「なぜ継続したのか」ということ、そしてあとはどうやって神さまを敬愛するかということを問われた。  マンガを描く時間が確保できてない。のったりのったり進む。もし仮に師範代になったら一体どうなるのか。マンガを描きながら、バイトもして、そしてこのブログも書き続けつつ師範代もやるのだったら、相当に個々の取り組みの速度をあげなくてはいけない。  速度を上げるには判断力を上げなくてはいけないけれど、その判断力に必要なのが、今夜のお話に出てきた、パターン・マッチングを通して因果関係を見つける機能、つまりは「類推エンジン」なのではないかと思う。  それはそれとして、最近ぼくは自分が本当にすべきこと、したいことを絞り込まないといけない気がして、前にも増してたくさんの問いを自分に立てるようになった。  ぼくのマンガに締め切りは無い。しかし問題は人間には寿命があるということだ。そしてぼくの親にも寿命があって、母がぼくが師範代になることに賛成なのは、やがてぼくが一人になるからだろう。だからというだけではなく、ぼくは世の中をなんとかしたいと思っていて、なんとかするために人と話せるようになりたいから花伝所で学んでいるわけだけれど、一方でどうしてもセイゴオ先生が生きておられるうちに、『侍JOTO』だけは描き上げねば…と感じている。  マンガはぼくの遊びであり、祈りである。 神仏千草の花に宿りけり

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