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神話から歴史へ

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada

千夜千冊1796夜、大津透さんの「神話から歴史へ」を読んで思い浮かんだことを書いています。 https://1000ya.isis.ne.jp/1796.html  狼煙があがるということがどういうことか、はっきりとはわからないけれど、今言わなければ間に合わないので、ぼくは言うことにした。  支度天のTさんがマンガのことを話してくれたのに、照れて上手く話せなかった。Tさんごめんね~今度はもっと話せると良いな。でも2日目の帰り道、Fさんと今の社会で起こってることについてちょっと交わせた。やっぱりFさんはぼくと似たようなことを考えていた。ここからだ。これからだ。  日本のことを本気で考えるなら、天皇や皇室についての議論はとうてい避けては通れない。ぼくの場合、最初はただ日本についてのマンガを描きたいと思ったのだ。『侍JOTO』は時代劇のアクションマンガだ。少年マンガらしく「大きな敵」と戦う話にしようとして、架空の忍者集団と戦うことになった。祖父ちゃんの家に『カムイ外伝』が一冊だけあって、ぼくは何度も読んで「抜け忍」というものを知っていたので、阿武二という抜け忍が侍になって、天竺三弥という謎の浪人と出会うという話が出来ていった。阿武二の抜けた、元の忍者集団のプロフィールを深めるうちに、彼らが古代王朝に何らかの関りを持っていたという話ができた。    ぼくは3・11のとき、プロのマンガ家を目指して上京していた。いくつかの雑誌社とやりとりしてきたけれど、どことも上手くいかず、最後のチャレンジのつもりだった。バイトをしながらマンガを描いては担当さんに見せ…ということを繰り返したけれど、何をどうすることが道をひらくのか全く分からず、何より生活に追われるとマンガが描けず、マンガを描いていると生活費が底をついて、そのどん底で人工地震が来た(その頃のぼくはまだ自然災害だと思っていた)。

 地震の直前昼寝をしていたぼくは、ある体験をした。その体験については見えないモノを本当に信じれる人以外には話せない。アタマがおかしいと思われるのがオチである(もうとっくにそう思われても仕方がないけれど)。前々からちょっと幽体離脱したりしてはいたのだけど、あの日のことはただ事じゃなかったので、ぼくは何かに突き動かされて、日本のために何かしなくてはいけないのだと思い、古い日本を求めて伊勢と、奈良と、京都に行ってみた。伊勢は美しく、京都はおもしろかったけど、また変なことが起きたのは三輪山の近くの、だだっ広い道を一人で歩いていたときだ。あの日呼ばれて、本楼に行ったときにもそれはやってきた。  風がぼくにマンガを描かせているのだ。気象操作に怒っているのだろう。けれどその風の正体を突き止めたところで何になるだろうか。なんだかそれは天皇や日本とは何かを明らかにすることと似ているようにも感じられる。  しかし色々な情報を通じて自分なりの見方を持つことは大切だ。見方が一人ひとりの生き方を決め、一人ひとりの生き方が地球の運命を決めるのだから。そういった世界編集のテーマが、今夜は日本人として自分なりの「天皇観を持つ」ということなのではないかと思う。  セイゴオ先生はまず、「王権」(kingship)という言い方より「王朝」(dynasty)というニュアンスで天皇をめぐるイデアの歴史を眺めてきたという。ぼくは王権と言うと政治的な匂いがして、王朝と呼ぶと祭司的な感じがする。この対比は漢と和、スサノオとアマテラスっぽいようにも思う。  ぼくも「万世一系」はあやしいというか、無いだろうと思う。しかし反対に、古代まで遡って渡来系の人々を、現代の「工作員」と呼ばれる連中と重ねている陰謀論にも閉口してしまうことがある。  血や遺伝子を誇ることはそれぞれの自由だと思うけれど、「遺伝子が特別だから、日本人には思いやりがある」と、血「だけ」を誇っている状態は、白人至上主義や金融貴族の血統主義の、自分たちの一族や血族さえこの地球の統治者として生き残れれば、あとは消えてもかまわないという考えとさして変わらないのではないかと思う。  しかしだからといって、もし日本の天皇が工作員や白人に意図的に取って代わられたら、日本の王朝は「乗っ取られた」ということになるのか。ぼくはそういう計画が実際にあり、徐々に進んでいると考えている。また、あの手この手で皇室への信頼を失墜させたり皇室を貶めたりしようとしている者がいるのだろうと感じている。彼らは日本人の心のよりどころや、ルーツを完全に破壊したいのだろう。天皇の依拠する神道の根底には自然信仰や精霊信仰がある。「自然を大切にする心」や「自然との調和に根差す昔ながらの暮らし」は、彼らが進める都市開発や、田畑の中にまで電磁波を持ち込んでくるIOT化や、種子を独占しゲノム編集食品などによって生態系も生態系も人間の出産をもコントロールしようとするバイオ産業とは真逆の方向にある。  だからぼくは古代の渡来人や王朝のゴタゴタと、現代日本人のいわゆる「愚民化」を目的とした、工作員による皇室乗っ取りや攻撃は、分けて考えた方がいいと思う。今夜のお話の目的は前者を日本人の歴史として、ぼくらのルーツとして知ることにある。  ぼくは折口信夫さんの見方に賛成だ。天皇の身体は「魂の容れ物」である。ぼくは正確には人間の身体はみな「魂の容れ物」だと思っている。一つの身体に一つの魂が宿っているのではなく、いくつもの魂が出入りしているのだ。ぼくがぼくだと思っているのは村長のようなもので、天皇陛下の場合はそこに「天皇霊」を迎えるために「真床襲衾(まどこおふすま)」という儀式を行う。  ただ、まだ他にもさまざまな謎やテーマがある。  ①いったい古代天皇はどのように出現したのか。豪族・貴族と   の関係、東アジアとの関係はどういうものだったのか。  ②どうして大王(おおきみ)あるいは天皇は、日本(倭国・ヤマ   ト)を統治あるいは君臨できたのか。朝廷、内裏、禁中とは   何か。  ③なぜ天皇の系譜は今日まで継続できたのか。天皇家が司る   祭祀とは何なのか。三種の神器とは何か。  ④天皇は君主か、元首か、象徴か。無答責な立場が保証されて   いるのはどうしてか。皇族とは何か。  ⑤天皇の歴史についてわかっていないことは何か。たとえば神   武天皇の想定、天孫降臨説、天皇の呼称、大嘗祭、伊勢神宮   との関係、摂関政治、院政のしくみ、幕府との関係、南北朝の   対立、尊王攘夷思想、近代天皇制のしくみ、統帥権の問題、   仏教との関係、国家神道、象徴天皇の規定、宮内庁の役割   など。    先生はこの5つの問題につきあってみなければ、日本のことなど語れないと思うべきだと言う。ぼくはよくもまぁ見切り発車でこんなマンガを描き出したものだ(苦笑)。  とはいえ既に賽は投げられた!今からでもこれらのことを検討し、整理し、議論するには、当初の「天皇の出現」についてのあらかたの知識が必要になる。大王が天皇となり、その一族の系譜が語られるようになった「当初のいきさつ」についての知識がそこそこ必要だ。くわしくはやっぱり千夜本編を読んだ方がいいに決まっている。手すりとして千夜千冊を噛み砕いて解説してくれる「オツ千」と合わせればバッチリだ。  ぼくは今夜初めて、神武天皇が仮の、天皇の原点として、のちのち導入された「暫定初代」だったのではないかという説があることを知った。天皇を貶めたい、あるいは天皇が嫌いな人々は、よく朝鮮半島との関係(天孫降臨説)に食いついて、「天孫族=天皇の一族が日本の原住民族を殺戮して…」という話をするのだけれど、そんな大昔はどこからどこまでが日本や日本人なんてまとまりは無かったのだから不毛な議論にしかならないように感じる。けれど一方で、ぼくはたしかに王朝であれ王権であれ権力が確立する時には、そんなに都合よく和を以て貴しとなす「だけ」だったとも思えないのだ。  個人的には(あまり『侍JOTO』には関係ないかもしれないけれど)ぼくは日本海・東シナ海周辺およびポリネシア神話との関係についてもっと知りたい。『モアナと伝説の海』に出てきた、マウイの母と言われているのが女神「シナ」で、ハワイやタヒチでは「ヒナ」と呼ばれているのがおもしろい。「ヒナ」は「お雛さま」とは関係ないのだろうか。だいたい鳥の雛が女の子の祭り(桃の節句)の雛になることに何か女神との縁を感じるのだけどなぁ。  ぼくは邪馬台国が九州にあったかどうかは分からないけれど、とにかく古代日本では卑弥呼=姫巫女という、巫女の預言を男の長が実行する、というスタイルで政治が行われていたのだと考えている。つまりたくさんの小さな国にたくさんの姫巫女がいたのだ。しかし大和朝廷が出来た時には、「卑弥呼から崇神へ」という流れのなか多くの戦乱を経て、男が自分たちの判断だけで政治をするようになっていたのではないかと思う。それからというもの、日本は今日まで元始太陽だった女神たちの声を無視し続け、自分たちに利害の無い声や、都合のいい声だけを利用しているようである。  今夜のお話を読んで「邪馬台国」というのは実際どこかにあった国ではなく、卑弥呼や神武天皇と同じく仮のモデルだったのではないかという気もした。巨大なグローバルスタンダードである中国に対し、まとまっているように見せるための方法としての倭国なのである。卑弥呼がたくさんいたのなら「邪馬台国」の位置や「卑弥呼の墓」を探すのもどうなのだろうと思う。  金印を貰った卑弥呼にも、三輪山のモモソヒメ=卑弥呼にも、ほんの少しばかりの縁があるぼくとしては、別の時代の二人に同じ霊が降りていたのではないかと感じる。  先生がピックアップしてくださっている仮説や伝承がおもしろいけれど、崇神が果たして卑弥呼の弟だったかは謎だ。崇神のあと天皇史は、イリ王朝からワケ王朝への交替があった。しかし先生も、血統や名告りや本拠地が変わったというだけなら、古代中国やヨーロッパの王朝交替ではしょっちゅうあったことで、とくに強調するには当たらないと仰っている。  神功皇后にも=卑弥呼説があるらしいけれど、もはやこれはイメージの転移だと思う。むしろ変わったのは「卑弥呼=姫巫女(神の声を聞く巫女)」ではなく「卑弥呼=政治をするスーパーキャリアウーマン」になったことではないだろうか。だからぼくもこのイメージは後世に、斉明天皇と持統天皇(とその側近たち)の政治に、文句を言わせないようするために編集されたのではないだろうかと考える。愛子さまを女系天皇にして、ロックフェラーの息のかかった小室圭サンのような奴と結婚させることで、日本の皇室を英国王室のように「親しみやすく低俗」にしていこうと画策するような、気持ち悪い陰謀と比べたらまだマシな陰謀に感じる。    さて、このへんで本編では神話時代に時計の針が戻る。ぼくは日本の神話を絵本で何度か読んで、だいたいの流れを知っている程度だ。だけどその程度すら、今の日本の小学生のどのくらいが知っているだろうか。いやそれどころか、ぼくと同世代の人でも知らない人は多いだろう。     先生はニニギの天孫降臨があまりに荒唐無稽なので、このことをどう解釈するかによって、すべてが空想的になりかねないと指摘する。ぼくは「海外から」かどうかは分からないけれど、「天孫降臨」とは外から来た勢力を肯定するためのモデルであって、モデルは遠い過去から借りて来ることだってできるので、記紀神話は

1 たくさんの卑弥呼(姫巫女)→ 代表的な卑弥呼(姫巫女)→ アマテラス(女神)

  ↓ 

2 渡来人 → 天孫降臨

という変化と、歴史の正当化のための場面の順序化が起きているのではないかなと思った。 現実の歴史としては渡来人によって中央集権化と父権社会化が進んだのではないか。そこをアマテラスを女神として持ち出すことで、物語を和らげているのではないかと思う。  先生はアマテラスがイザナギの黄泉帰り(=蘇り)のあとの「みそぎ」から生成した(ミアレという)事情には、アマテラスが「負」や「欠」からの再生であったというメタストーリーが起動していたのだと言う。アマテラスの負とは何か。単なる想像だけれど、ぼくはイザナミの死、アマテラスの誕生、アマテラスが天岩戸に隠れたこと、アマテラスが岩戸から出てきたことは、それぞれ「アマテラス=卑弥呼=共同体の姫巫女」が死去などして、代替わりしたことを示しているのではないだろうか。  神話上では最終的に、そのアマテラスの孫にあたるニニギノミコトが高木神からアマテラスの志しを継いで、地上に国をつくるようにとの命を受け天孫降臨する。ただ降りたところは日向だった。同じような構造がスサノオ・オオクニヌシを相手とする国譲りにもあるが、こちらは出雲になっている。ともかくも、こうして日本神話はカムヤマトイワレヒコが東征を果たして初代天皇=武天皇として即位したというふうに万事をまとめる。吸収合併の型が場所を変えて推移しているようだ。  ぼくは「神武東征」になると急に血生臭くなっている印象を受ける。長髄彦(ながすねひこ)など、まつろわぬものたちの排除の様子を英雄物語として描いているからだろう。ともかく、こうしてイワレヒコは荒ぶる神、土俗の者などを服従させ、神武天皇として桜井の橿原宮で即位した。神武が東征して大和に入った物語は、日本の歴史としては、もともと長髄彦が支配していたとおぼしい土地を、ニギハヤヒの協力をとりつけてイワレヒコが強引に、あるいは巧みな交渉をもって掌中にしたという顛末なのである。  いいかえれば、日本各地の「国津神」(くにつかみ)たちが高天が原の「天津神」(あまつかみ)連合体に次から次へと帰順した物語なのだ。最後にニギハヤヒが長髄彦を裏切って天津神(すなわち天孫族)のほうに寝返ったというふうにも読める。  その後も各代の天皇による、さまざまな改革とドラマがあった。実は即位の事情が変わっていたのが、今日の天皇家に続く血脈と考えられている継体天皇である。評判の悪い武烈に嗣子がなく、大連(おおむらじ)の大伴金村が、越前にいたオオド(男大迹王)をさがしだし、物部麁鹿火(もののべのあらかい)らが推挙して河内の樟葉宮(現在の枚方)で即位する。皇室内部や周辺豪族との葛藤や対立があったため即位まで随分時間がかかったようだ。  百済から任那4県の割譲を相談されたときは、継体は金村にこれを承諾させたのだが、新羅がその任那に侵攻しようとした。継体がこれを奪還しようとしたところ、筑紫の磐井が新羅と結んで反乱をおこうそうとしたため、麁鹿火に鎮圧させた。こんなふうにかつての天皇は半島と切り離せない事情を持った存在だったのだ。国境があいまいな分、日本全体がもっと深くアジアとつながり、切り結んでいたのではないか。最近先生は「近江ARS」のプロジェクトを通して継体と近江の関係を追っている。    昔の天皇や日本の長たちが血で血を洗う争いをしてきたとしても、そのモノガタリも含めて、ぼくは今の「天皇という方法」を捨てるべきではないと考える。特に祈りの儀式は大切だ。それよりどうでもいいパペット内閣の任命やオリンピックに陛下を引っ張り出すのをやめてほしい。国家としての日本がとっくに奴隷国家アメリカのさらに下にある株式会社と化しているならば、ぼくたちに残されているのは、知識と意志を結ぶ力によって守護されている価値観と想像力であり、故郷にゆらぐ面影日本なのだ。  よく分からないけど横顔があった。「マンガのスコア」の人が描いてくれたのかな。勘違いだったら恥ずかしい。でもスイミーもいた。「梅は咲いたか、桜はまだかいな」の現代風の歌が流れていた。はじめて聞いたけれど素敵なリミックスだ。FさんからIさんがぼくに花伝を勧めたことを自慢していたのだと聞いて、照れ臭いけれどぼくも嬉しかった。参観教室での指南も拝見していたので、そのIさんが教室の学衆さんたちへ向けて語り掛けた場面や、Yさんの感涙につられてしまった。お着物の素敵なSさんの凛とした姿に、Nさんのはにかみ、オリジナルのシャツで気合の入ったHさんの笑顔がまぶしかった。道場の仲間との再会はただただ嬉しい。去年お世話になった人たちにも口々にお祝いの言葉をいただき、参観教室で参考にしていたU師範代から、ぼくのようなタイプの師範代に必要なアドバイスを貰ってありがたかった(それにしてもすごいアナロジーだ)。二日目の最後は今期を駆け抜けた14離の仲間のハイライトと、みなさまの心づくしの編集に、またまた涙が出てしまった。

 素晴らしい門出を、ありがとうございました。

本楼にてインタースコア花盛り


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