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千夜千冊1141夜・歴象篇、萩原秀三郎さんの『稲と鳥と太陽の道』を読んで思い浮かんだことを書いています。
ぼくは今、千夜千冊を追っかけている「オツ千」をさらに追っかけているのだが、オツ千が三年で100夜進んだとして、そのくらいのペースでは、完走するのに50年かかるそうだ。だからどんどん出ているのか。なんだかとんでもないことになってきた(もう遅れているし!)。これも一つの編集稽古になるには違いないだろうから、なるべくブログを書きたい。しかしもし破の師範代になったりしたら、さすがに無理かもしれない(まだ全くアテはないけど…)。その前に、そもそも早く仕事を見つけなくてはいけない…困ったものである。
今夜のお話は、セイゴオ先生がその仕事を褒め称える写真家・萩原秀三郎さんの、考古学的仮設の一つを案内する。「日本のコメは中国南部のミャオ族(苗族)によってもたらされたのではないか」という仮説だ。
本が書かれたのも、この千夜千冊が書かれたのも随分前だが、2024年新米が出る季節でもある現在、日本では令和の米騒動が起きている。お米の値段が上がっているのは、各地のメガソーラー建設に資金を出しており、維新の会とも関わっている、元ソフトバンクグループ、SBI証券の社長兼会長の北尾吉孝という者が、米の先物取引所を開き、米をマネーゲームの対象にしているからだという。
マスコミは気候変動(猛暑)による影響だとか、インバウンドが増えたからだと言っていたが、主な原因は政府と官僚が日本国民の食よりも、投資家や商社への利益、自分たちの利益を優先し、政府備蓄米を放出しないからであるらしい。
他の原因は鈴木宣弘さんの分析する通り、長年の減反政策と、アメリカの指示を受けた政府と官僚による意図的な農家潰し、米農家潰しによるものだろうと思われる。その中でも姑息なのが「田んぼを潰せば一時金を出す」という政策だ。
農地へソーラーパネル設置するようにとの圧力も強まっているという。気象操作の猛暑や台風に加えて、表面温度が80度にも達するというソーラーパネルの上で上昇気流が発生することが、人工的なゲリラ豪雨や線状降水帯の被害を、さらに悪化させているのだろう。保水機能の高い田んぼが減れば、災害は起きやすくなるのである。反対の見方をすれば、田んぼは命を守る天然のダムでありクーラーだ。
今夜のお話でも、お米はムギにくらべて1本当たりの収穫量が格段に多い作物であることが紹介されている。ヨーロッパの麦作が播種量の5倍~6倍であるのに対して、日本の米作は約30倍~40倍になるそうだ。しかも何千年でも連作ができるという。
「連作」とは毎年同じ場所に同じ科の作物を植え続けることだ。ぼくらの知っている野菜の多くは、トマトでもジャガイモでも、これらを毎年同じ場所に植え続けると、病害虫の被害を大きく受けたり、収穫量が減っていくなどの問題が出てくる。長年自然栽培をしている場合は、連作するほど土中環境がよくなるという話もあるが、江戸時代までの農薬や化学肥料を使わない有機農法の場合、作り方によっては連作障害があったから「忌地」「いや地」などという言葉があるのではなかろうか。
だからこそ日本人は、まず昔から連作できるお米を主食にし、田植えや収穫の時は共同体の仲間同士で助け合って、稲の神を祀り、稲玉とともに生きてきたのだろう。
こうしたことを知ると、あらためてお米が、そして水田や農家さんが、日本の食を支えてくださっていることのありがたさを感じる。
オツ千の苗代の話にも考えさせられた。たしかに今の社会は人を育てるゆとりがなく、即戦力ばかりが求められる。最近聞いたある方のお話によると、昔は新米よりも、熟成した古米のほうが美味しいという認識だったそうだ。それで未熟な人をお米に例え「新米」と言ったらしい(今の慣行栽培のお米が、同じように熟成するかどうかは分からない)。だけど今はそうした言葉の意味を忘れて、人でも物でも新しいものばかりありがたがり、一方で若い人の未熟さを利用し、彼らの若さ自体を消費しようとしている。そういうことを青田買いと言ったりする。だから若い人には「くれぐれも気をつけるんだ」と言ったりしたくなる。
今夜のお話を読んで、ぼくは日本の魂は、太陽の道と海上の道を旅し、折り重なり混ざりあいながら、この国へとやったきたのだと分かった。身近な節目の行事のそこかしこに、はるか遠くに住むミャオ族(苗族)と、こんなにも似たところがあるなんて。
セイゴオ先生はこの千夜を書きながら、日本人が正月や春分や冬至を、ただの表面的なイベントとしてではなく、東アジアの文化と日本文化が、また日本の祖霊信仰と稲作の儀礼とが、深くつながっていることを、感じながら過ごしてくれたらと願っていたのだ。ぼくも一本の苗代として、そんな世界をイメージしていこう。
金色の穂積高らか秋の空