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自己組織化する宇宙

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada

 

 千夜千冊・1731夜、エリッヒ・ヤンツさんの「自己組織化する宇宙」を読んで思い浮かんだことを書いています。



 言いそびれてしまったのですが、昨年末父が大腸がんと判明し、1月の初旬に切って入退院しました。ほぼステージ4に近い3らしいのですが、転移は無いそうなのでそれほど危機が迫っているというふうでもありません。ただ医者からタバコをやめるように言われ、一時的に言うことをきいていたためストレスが溜まっていたらしく、八つ当たりをしてきたので喧嘩になりました。


 僕に言わせると親父は「資本主義の権化」で、引退した今は「テレビの番人」をしています。僕と母は政治的な意見が同じなので、ニュースが同じことを繰り返していると、そのことや自民党政権に文句を言ったり、社会問題について色々と話をするのですが、親父としてはそれが気に入らなかったようです(今まではそれをタバコの快楽が抑制していたようです)。

 それで(論理的ではなかったので、あちらの言いたかったらしいことを勝手に捕捉するしかないのですが)僕に「お前に批判する資格があるのか」ということを怒鳴ってきました。


 まぁ、言いたいことは分かります。

 僕のようないい年をした者が、アルバイトで、しかもあまり働かないで(月給5万円以下で)、実家に寄生して、全く金にならないマンガなどを描いているのですから…。


 僕の家族は誰も僕がどんなマンガを描いているか知らないし、僕が先生と何をしているかも知りません。(母だけ少しだけ理解しているという程度です。)


 ですから僕は時代劇の冷や飯食い的な立場というか、ペットみたいなものというか、本当にただの荷物かゴミのような存在です。

 だから「お前のような生産性の低い人間は社会に対して文句を言う資格は無い」+「俺の選んだ番組に文句ばかり言うな」と言いたかったのだろうと思います。


親父:「(文句を言いたくなるなら)テレビを見なければいい」

僕:「でも一日中(大音量で)ついてるし」

親父:「(それが嫌)なら出ていけ」

僕「おう、出ていく(0.5秒本気)」


 というなんとも陳腐なやりとりの後、茶番よろしく皿を割って

「どうせ俺は出来損ないたい(博多弁)。生まれた時からな!」

と捨て台詞を吐きました。


 なんちゅう有様ツッコミどころ満載過ぎの子供じみた滑稽な頑固者同士の寂しい喧嘩です。

 今までもこういう喧嘩は何度かあって、その度に僕は小さな家出をしたり、引きこもったり、透明人間になったりするのですが、いつもそのうち親父の方から甘いものを買って解決しようとします(今回は焼きドーナツでした)。言い換えると、あたかも何も問題が無かったかのような、安定した状態に戻ろうとするということかもしれません。


 ただ今回は、僕はこの喧嘩に色々な問題が内包されているような気がして考えました。


僕はこんな生き方でいいのか?

よくないとしたらどうするのか?


 普通だったらまぁ家を出て、働きながら空いた時間でマンガを描くのが当たり前なのだと思いますが…。そうなると、きっと生きるために食べるために金を稼ぐために生きることになって、地球の破壊にますます加担して、先生がご存命のうちに「侍JOTO」を描き上げるのは難しいし、「破」や「離」を受講することも、先生とお話しすることも難しくなるのではないかと思うと、障害で、おそらく結婚したりすることの無いだろう僕は、自分が何のために生きているのか分からなくなりそうです。


 僕もずっとこの問題に、どう対処したらいいのかが、思想的にも行動的にも組み立てられないままやって来ました。あるいは組み立てたけど、その秘密基地はことごとく倒壊してしまったのかもしれません。


 今回新たに生まれた秩序といえば、まず「テレビを全く見ないし、音も耳栓をして聞かない」ということでしょうか。1週間テレビを見ず聞かず、僕はスマホも持たないので。電磁波を浴びる時間が減ったせいか、すこぶる体調が良くなってしまった気がしています。


 そして僕はもう同じパターンの繰り返しだけは破ろうと、今回の"陳"事件以来、焼きドーナツに屈することなく(食ったけどね!)親父に対してだけ透明人間になっています。おかげで「カラマーゾフ」のイワンのように親父を呪う無駄な時間はなくなりました。


 あと自動組織化の特性の、何が僕にあてはまるかどうかは分かりませんが、今夜は僕も前々から、「みそ汁の味噌のモヤモヤって星雲みたい…」と思って眺めていたのを思い出しました。


 自己超越の2パターンの回路は「ツリー・オーダー・ヒエラルキー回路」が西洋・父性的で、「リゾーム・再帰・再生回路」は東洋・母性的に感じました。今の「女性活躍」は単に女性に男性原理回路を強いていますが、本来すべきは、回路の編集においてもっと「リゾーム・再帰・再生」的になり、性別に関係なく、僕たちシステム自体の母性を回復することではないかと思いました。


 僕はまだ今回の喧嘩プロセスにどんな「ゆらぎ」がおこっていたのか、そもそも僕にとっての「対称性の破れ」とは何なのか、「相互深化」はあったか…?などということを考えています。

 振り返りが大事だと、美濃越師範代に言われたことを思い出します。


 喧嘩と前後して田中優子さんの記事を読んだために、僕も先生のそば近くで暮らしながら学べたらと夢想しました。けれどそれにはやはり「どうやって生きるのか」という、東京あるいは先生のそばでやる仕事が無くてはいけないのだろうと思いました。

 それとは別に、田中優子さんの記事にはとても背中を押していただいたようにも感じました。


 僕が「八つ当たりをするぐらいなら吸やぁいいのに」と思っていたら、親父はまたタバコを吸うようになって、一見システムは元通りになったかのようです。


このままでいいのか…?

どうしたらいいのか…?


と、僕一人だけあてもなくゆらぎ続けています。



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