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風のタネ探し

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada


 最近の出来事や思い浮かんだことを色々と書いています。

 

 昨年親父が亡くなってゴタゴタしていた家のことがようやく一段落したので、近所に花見に行ってきました。春らしい曇りの神社の境内の芝生で、家族や友人同士でささやかな花見をしている人々が何組かいて、のどかな雰囲気でした。せっかく杜があるので、鳥のさえずりや風のそよぐ音を感じたかったのですが、その神社が雅楽をBGMとして流ししているのには興ざめしましてしまいました。雅楽なんていうものは特別なハレの日に聴くからありがたいのに、テープで延々と流すなんて、土地の神様に失礼ではないのかな。ぼくはそんなことを考えていたせいか祈願にも集中できませんでした。

 そう言えばどこかよその地域でも、1200年も続いた祭りを、今年でやめると言っていました。規模を縮小したり、観光客からは参加費を取るなど、なんらかの工夫してでも伝統を次世代に次いでいくといったような選択肢がなかったのか。ふと、先の感門で先生が「行くか行かないか、やるかやらないかというときの”どうしようか”という数が、あまりにもまだまだ少なすぎる」と言っていたことを思い出しました。


 地域の崩壊は他にも様々な形で表れています。先日ぼくの近所に住んでいる一人暮らしのおばあさんが亡くなりました。お年寄りだからということで片づけられてしまうのだと思いますが、ぼくはワクチンによる体調の悪化、端的に言うとワクチンとスマートメーターによって殺されたのだと考えています。

 そのおばあさんは、ぼくらが子供の頃、近所の子供がうるさいと、小さい子供がいる親たちに文句を言ったり、子供の悪戯で小火騒ぎがあったとき、消防ではなく警察を呼んだりしたことがあったので、町内のお母さんたちから嫌われてしまい、孤立していたようです。そのためにコロナによる人口削減が始まってからも、そのおばあさんはテレビやワクチンを推進する医者の言うことしか知らず、他の可能性を選択できない状況にあり、一人きりで死ぬことになってしまったのではないか。同じ町内の、母と同世代の奥さんはワクチンのことを知っていたので、ぼくはことさらそう思いました。

 歳をとってお独りになってからは穏やかになられて、ウチに遊びに来たぼくの甥がぐずって大泣きしたときも、うるさがったりせず、心配して声をかけてくれたこともあったので、母はおばあさんに同情していました。ぼくもおばあさんの家の庭の椿や躑躅が今年も綺麗に咲いているのが、なんだかとても悲しく感じました。

 

 コロナパンデミックというショックドクトリンを利用した5Gとデジタル監視社会の普及が、免疫力を弱め癌を誘発するなど身体に様々な悪影響を及ぼすだけでなく、風土に根ざした人と人とのつながりや、社会や自然など周囲の微かな気配を感じようとする察知力、ぼくたちの身体的な感覚までもを、ことごとく破壊しているようです。

 このような今だからこそ、先生から教わったことを活かさなくてはと思っています。こんなふうにして日本という国が死んでいくのを、見ているのだけでいるのはごめんなので、無様でもいいから何でもやってみます。

 

 「近江ARS TOKYO」と同日になってしまった『カンタ!ティモール』の上映会ですが、チラシをつくり、色々なところに置いてもらう交渉に行きました。最初は勇気が要りましたが、だんだん度胸がついてきたように思います。チェーン店や集会所からは(これがコンプライアンスというやつなのか…)断られてしまいましたが、地元の農産物の直売所と、いい素材を惜しみなく使っていてファンの多い小さな天然酵母パン屋さんが置いてくれました。特にパン屋さんは快く受け取ってくださって、嬉しかったです。こうした関係性が地域でもっと広げれたらいいなと感じます。

 

 先月の14離の会議には花伝師範のHさんも加わり、Oさんが、税金についての解像度が上がったことで気づいた、法と罪と権力と政治の関係について語ってくれました。その図解がとてもふるっていました。あと、ぼくが以前からノートの取り方に悩んでいる話をしたからか、読書の際のノーティングについて教えてもらえました。とても全ての真似はできませんが、Oさんの博学ぶりを支えている方法を教えてもらえてありがたかったです。穂積さんがオツ千で紹介しておられたツールも気になっており、時間を見つけて色々試してみたいと考えています。

 ただ、前回はせっかくのOさんの話を、編集的自由(6つのディレクション)の方向へ展開するような話し合いにしていくことができなかったなという気がしています。メンバーのTさんが去年、14離企画会議の進め方について色々と提案してくれたときは、結局あまりカッチリ決めないほうが長く続くのではないかということで、ノリを優先しましたが、モードはゆるく軽くカ~ルでいいとして、+もう少し話し合いを活発にする工夫ができたらいいのではないかと思えました。最近ずいぶん遅れて『探求型読書』を読んでいて、誰かが持ち回りで音頭をとるとか、探求型読書のクエストリーディングのようなモデルを使ったらいいのではないかなと考えているところです。

 

 今回のマンガは約80ページになってしまいました。およそ二話分のボリュームです。普通なら分けて掲載するのだと思いますが、ぼくだったら一気に読みたいので、読みたいように書く、一氣に描く…ことにしました。ただそのぶん、いつもより時間がかかることになりそうです。

 こちらのブログを書いている暇があるかなとも思ったのですが、何らかの文章でのアウトプットをしていないと、それ自体が億劫になる気もするので、千夜千冊がお休みの場合も、時々近況をまとめる機会を持ってはどうかと考えた次第です。

 

 ここ最近は感門の校長講和や、セイゴオ先生と翻訳家の鴻巣友季子さんの対談を書き起こして振り返っていました。

 先生とのご対談で鴻巣さんが、クリエイティブライティングについて「物語ってどこか開いてたり、ほどけてたり、ほころんでたりするほうがおもしろい」という話されていましたが、ぼくはいつも特に伏線をこう回収しようとか、こうつじつまを合わせようとあまり考えないので、ヘタをすると間違ってしまうことがあるほどです。でもいつもなんとかあるべきようになっていくようなところもあって、変な話ですが、自分で「こういうふうになるのか」と、少し驚くこともあります。今回もずっと前から想定していた話の行方とは違った形になったのですが、先生に教室名をいただいたときのように、「ああこれだ、これしかない」と思えました。

 

 ネームを描きながら引き出しを整理していたら、偶然に以前先生にお贈りした歌のノートを書き写していたものが見つかって、まるで何かのおまけをもらったみたいです。もしかしたらこれで曲をお贈りできるかもしれません。でもそちらにかまけて、肝心のマンガがおろそかになってもいけないので、描き終えてからにしようと思います。

 

 駆けっこの素足くすぐる春の風


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