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千夜千冊・1730夜、ジャン=ミシェル・モルポワさんの「見えないものを集める蜜蜂」を読んで思い浮かんだことを書いています。
今夜のお話を読みながら「そうだそうだ」と、僕は何度も心の中でうなずきました。
日常的に文章を書いているのではなく、僕が描いているのはマンガなのですが、モルポワさんの言うように、「気が付けば、僕は描く人になっていた。僕が描いているのか、描いてるから僕なのか、だんだん区別がなくなっていった。」ように思います。ですから今夜「けれども書いてみるからこそ、私は定めないままの自分であろうとできるのだ。」というところを読んだときなど、「ああそうだ」と声になりそうなほど、彼の「書くこと」と、僕にとっての「描くこと」に近しいものを感じました。
しかし何もかもが同じというわけでもありませんでした。先生の真似をして、僕が先生のコラージュをさらに切り貼りしてみると、僕の場合は…
感情を伴って描いている僕と、デッサンや構図を決める僕が混在している。神経で描いているのだろうか。しかしその神経に電気信号を送るのはきっと自我ではない。それが誰かを考える間もなく、気が付けば「欠けているもの」を描いている。その欠如ゆえの霊感が「創発」を起こす。
6歳でマンガに出会ったとき、僕は「これにしよう」と思った。おそらく、今思えばあの時「これで遊ぼう」と決めたのではなかろうか。
子供の頃は、僕は描くこと以外に自分が何が好きなのかよく分からなかった。僕のキャラクター達の方が、好きなことや耐えられないものが、僕よりはっきりしているのだ。
かくして僕はマンガを描く。しかし僕には何かをのこしているという意識はあまりない。
…というようなモンタージュになります。
モルポワさんの「見えないものを集める蜜蜂」の表現は、今まで聞いてきた中でも、最も美しい例えのように思われ、僕もそのようにマンガが描けたら良いなぁとつくづく思いました。
僕も今まで何度も時々自分にとって「マンガを描くこと」とは何か、考えてはきたのですが、著者のように自分なりの言葉を見つけたことがありません。
今夜は先生にとっての千夜千冊がどんな作業かということも分かって、僕は患者の一人として、なんだか大切にしてもらえているのだと幸せな気持ちになりました。
ただ、僕はこのブログを書くときは先生と対話しているようなつもりなのですが、マンガを描いているときは、先生のように読み手のお薬を調合しているのだろうか…?と考えると、少し違っています。
マンガを描くとき、僕は先生のように直に相手を意識することができません。
けれど僕にとっても、きっと「マンガを描くこと」は「いとおしい作業」だと思います。
僕は何より僕のマンガのキャラクターを「いとおしい」と思っています。
それをひとりよがりと言われればそれまでなのですが、それには多分僕独特の事情があるのです。
僕には、まだ目に見える現実には、僕のマンガの読み手は、先生以外にTさんやFさんの奥さんなど、指で数えれるほどしかいません。
だから僕にとって自分の「マンガのキャラクターがいとおしい」というのは、彼らが単に「僕の分身」だからというのではなく、僕にとっては彼らこそが、分身であると同時に「この世界のみんなであり誰かの化身」だからなのではないかと思うのです。
つまり僕にとっては、彼らは僕であると同時に相手なのです。
ああ…きっと…。