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視覚的無意識

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada

 

 千夜千冊1778夜、ロザリンド・E・クラウスさんの『視覚的無意識』を読んで思い浮かんだことを書いています。

編集工学では代理や代表などの「代」を大切にする。代用、交換、互換、取替、交代(交替)、置換などだ。これを英語ではサブスティテューション(substitution)と言い、金融業界では取引期間中に取引銘柄を差し替えることを「サブスチ」なんて言う。

 ただし良い感じのサブスティテューション(代)が現れるには、まず元祖や先代モデルに圧倒的な中身がなくてはならない。「うさと」もさとううさぶろうさんの衣服へ懸ける熱意とアルスがあればこそなのだ。

 サブスティテューションに先行するモデルは必ずしも一つとはかぎらず、歴史上の森羅万象はいずれも「代」の実験だった。編集工学の実践も同じく、その「別様の可能性」(contingency)を拓くためのものだ。  

ただし別様の可能性を拓くには、そのいくつかの先行モデルに、できるだけ際立つほどに代表的なものを想定できていなければならない。そして、それらのモデルの「あいだの意外な相互関係」を想定する必要がある。

 セイゴオ先生の場合は、芸術分野においての先行モデルがレオナルド、バッハ、デュシャンだった。今夜のお話はそのうちの、デュシャンとその周辺のアーティストが企んだ「代」について、である。

 ぼくは「レディメイド」のデュシャンが「公衆とかかわりをもつにはどうしたらいいか」なんてことを意図していたとは意外だった。ぼくはデュシャンを、生まれながらトリックスター的気質を持ったキャラクターのようにみなしていたからだ。しかしよく考えると、トリックスターは人間に贈り物をしたり、からかったりすることが好きなのだから、当たらずとも遠からずなのかもしれない。当時は他にもそういった神がいたらしく、本書の著者であるロザリンド・クラウスは、ラスキンやベンヤミンの見方を通じて、アートと現代思想の関りを解き明かしていった。

 ジョン・ラスキンは芸術が単に「世界の観察」をしているのではなく、「世界からの観照的抽象」に向かっていると見ていた。難しい用語だが、芸術は世界の意味や世界と対峙したとき感じた「美」を明らかにし、表象する方向性を持っているというような意味ではないかと思う。

 また、本書のタイトルである『視覚的無意識』は、ヴァルター・ベンヤミンからの転用だ。ベンヤミンは座禅などの瞑想だけではなく、流れていく写真や映像によっても無意識がおこることを指摘した。クラウスは、それならアートを見ていても視覚的無意識がおこるし、アーティストもすでにそういう視覚的無意識をもつようになっていると想定した。

 第2章では、すでに当時のアーティストたちが既存のカタログやチラシやポスターや看板、つまりは「レディメイド」(既成品)からインスピレーションを得て、それをコラージュしたりオーバーペインティング(上塗り)していたことが書かれている。その遊びがやがてデュシャンとウォーホルによって現代美術のメインストリームになっていったのだ。

 第3章はデュシャンが初期の作品から視覚的無意識をアートにするための装置を作ろうとしてきたことが記されている。セイゴオ先生は、デュシャンはアートをタブロー(枠の中に収まったモノ)から飛び出させることによって、それまでのアートとは全く違った新たな視覚装置にしようと意図したのだろうと推測された。

 視覚的実験と言えば、有名なのは印象派の描法。画家と鑑賞者の網膜の上で混ざる「網膜主義」である。これは生理学者ヘルムホルツのアソシエーショニズム(知覚連合主義)、サルトルの無意識的想像力理論、リチャード・ローティの「認識はカメラ・オブスクラのように対象とのあいだで拡張される」という見方などともつながる。 

デュシャン場合、表示装置がこれを見る者の網膜でも脳内でもなく、「リビドー」つまりは性的な衝動にはたらきかけるようにしたいと思ってのではないかと著者は考えた。

 アートの歴史は偶然も必然も、判然も当然も追ってきた。

 しかしセイゴオ先生曰く、これらの組み合わせがなんらかの美術作品になっていくとき、そこには何らかの「別様の仕立て」がはたらかなくてはならないのだ。それこそがサブスティテューションなのである。キリスト像はキリストそのものではなく、ゴッホのひまわりはひまわりではなく、北斎の富士は富士山ではなく、ピカソの《ゲルニカ》は戦争ではないという例えで納得できた。それらはサブスティテューションなのだ。

 サブスティテューション(代理形成力)こそが表象力であると言われると「なるほど」と思うが、ハンス・ベルメールの作品が一体何の「プレイ/ミスプレイ」なのか、何の「写しと分身」なのか。幼児のバラバラ殺人のようだと思って、ぼくは気分が良くなかった。

 ベルメールと違って、人形に欲情を留めておけないサタニスト性犯罪者どもは、幼児の歯でハイヒールなど作っているらしいという胸糞の悪い情報を耳にしたかもしれない。本物の子供の歯なので、無論アートではない。あれをアートなどと呼ぶ者がいたら、ぼくが直接そいつの霊魂を地獄に送ってやろう。

 そういったことをやってる連中が日本に押し付け、やらさているだけのオリンピックの開会式なんて見なかったが、大会の開催に際して、現代アートチーム「目」というインスタント組織が造った個人の生首オブジェは、一体何のサブスティテューションなのか。多分「デジタル庁」の発足と、「デジタル関連法案」の成立よる超監視社会化の恐怖を、国民の無意識下に刷り込みたいのだろう。

 市役所の個人情報は、今までは本人の合意をとって直接収集する決まりだったが、デジタル庁では個人の病歴など、個人の尊厳にかかわる情報までを勝手に収集可能にするという。第三者委員会が個人情報を保護するというが、たとえ結果的に国民の個人情報が洩れても、企業に対しては厳重注意の勧告しかしないのだからアテにはならない。むしろいつもの二重思考戦法だと思った方がいいのではないか。国家は地方自治体の個人情報を集め、何をしようとしているのか。

 今回の法案で役所は住民の同意が無くても、個人情報を民間企業に提出できるようになった。この流れが加速すれば、税金の支払いだけでなく、住所、年収、病歴や障害の状況などの健康情報、家族との関係(結婚・離婚履歴や血縁関係)、学歴や経歴など、個人のありとあらゆる情報がマイナンバーに紐づけされ、売り渡され、その情報によって生まれたときから死ぬまで、学校入学や企業就職においてランク付け・選別されていくようになるのだろう。まさにカーストストーカー売国政府だ。

 つまり生首オブジェは「個人を監視してるぞー晒し首にするぞー」ということを表したいらしい。けれども先行モデルに圧倒的な中身や「際」があるわけでも、想定による代理性があるわけでも無く、心に届くどころかかすりもせず全くつまらない。きっと製作者はNWOの意図を知った上で作ったのではなくいいように騙されたのだろうが、気の毒な限りだ。

 スポーツにあまり興味が無いので、選手に対し思うことも特にない。政府や地方行政や協賛企業やマスコミ業界に対して言えることがあるとすれば、多くの人々を人体実験に誘導し、ワクチンで殺しておきながら、何がオリンピックだというのが、ぼくの本音である。

 ところでデュシャンやベルメールやエヴァ・ヘスような作品を観て、実際に助平な気分になる人なんているんだろうか。性的嗜好は人それぞれなので何とも言えないが、ぼくは「性」がサブスチなアートになると、そういった気分は鳴りを潜め「どういう意図で作ったんだろうか」という興味の方へと気持ちが傾く。

 ぼくは普通のポルノみたいなものでないとそんな気分にならない。児童ポルノや幼女系エロ漫画には吐き気を催すことはあってもそんな気分になならない。一方で浮世絵の和印は笑えるけど、やはりあまりそんな気分にはならない。だから案外ごくごく凡庸な性的嗜好なのだろう。ただしぼくの場合障害的な事情から、そういった気分は起こりにくくなっている。さらに年を経るごとに、だんだんと色情は薄くなっている気がする。

 ふと、「性」をアートにして他人の度肝を抜きたいデュシャンらの気分というのは、和印を描く浮世絵師に似たものなのかもしれないとも思った。

 ぼくはマンガは美術や芸術的な面と、物語を作る語り部の仕事、職人仕事が合わさったようなものだと感じている。マンガのキャラクターは人間そのものを写実的に描くわけではなく、それなりに「別様の仕立て」をはたらかせているからサブスティテューションなのかもしれない。だがマンガというスタイルそれ自体が「プレイ/ミスプレイ」のダブルスイッチを保有することは無いように思う。だから食欲にはたらきかけるには食べ物を描き、リビドーにはたらきかけるには性的な場面そのものを描くことになるのだろう。

 ただ、ぼくは描いていると視覚的無意識らしきものを経験することがある。自分で描いて自分で見入っているのだから世話が要らないよなと、苦笑いしてしまうが、描いたマンガの画面=タブローに吸い寄せられるというか、ついつい見つめながらぼーっとしてしまうので、氣を取り直さないと先へ進めない。しかしそういう画が描けたら、もしかしたら画にそれだけの「引力」があるということではないかとも思う。でも狙ったりはしない。ただ、遊ぶだけである。

視覚的無意識に燃ゆ百日紅

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