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逝きし日の面影

  • 執筆者の写真: Hisahito Terada
    Hisahito Terada
  • 3月25日
  • 読了時間: 6分

更新日:3月28日




千夜千冊1203夜・歴象篇、渡辺京二さんの『逝きし日の面影』を読んで思い浮かんだことを書いています。

 

 

 3月18日に行われたオツ千ライブは、感門の盟の校長講和の代わりの、締めの一番のような充実した内容だった。ぼくはとくに「知識の組み合わせとは、一つの問いに対し一つの正解しかないような一対一の関係なのではなく、本当は一対多になっている。だから多のほうから一(カテゴリー)を動かせるのではないか」というカテーナの話に気持ちが動いた。さまざまな記憶法にまつわる話も軽快でおもしろく、ライブの当たり前のような延長が編集学校らしくて嬉しかった。多読アレゴリアも、時々このような節目の儀式で成果をお披露目することが、「守」や「破」の学衆さんたちへの刺激にもなるのではなかろうか。

 

 今夜の一冊の著者、渡辺京二さんは、幕末に日本を訪れた外国人たちが、一様に日本の風景や生活、人々の様子を賞賛していたこと、彼ら自身が実は開国によって欧米の物質主義が日本に浸透し「江戸文明」が失われていくことを惜しんでいた様子を、多数の見聞録から明らかにし、紹介している。

 

 本書が書かれた1998年は、国内では社会の中で行き場を失くした「ひきこもり」や「キレる若者」が問題化し、海外ではモンサントやバイエルなどの巨大アグリビジネスによる歪な食糧支配に対して、識者やよく勉強されている農家の方々がようやく反旗を翻し始めた年だったらしい。

 資本主義によって、食・環境・精神・文化のなかに巣食った病が、耐え切れぬ症状となって表面化したような時代だったのだろう。

 

 著者は令和の今にも続くこの症状、現代社会が抱える様々な問題の根幹に何があるのか、とくに日本人が何を失い間違えてきたのか、間違い続けているのかを、日本の歴史が極端に分断された近代をふりかえることで見つめようとした。

 

 幕末に日本に来た外人たちは、道路や農地、郊外の景観の比類のない美しさに感動したらしい。ぼくの地元福岡の街の郊外は、今や開発によって次々と山や丘が削られ丸禿になって、田んぼや畑は潰され、ゴテゴテした色のショッピングセンターや、タワーマンションに変わり、わずかに残った木々や川の周りは人々が投げ捨てたゴミだらけになっている。おまけに護岸工事で蛍も蛙も死に絶え、生態系はことごとく破壊された有様だ。

 彼らは日本の立派な稲、良質な米を褒め称えてくれたが、今やその米は、うすっぺらい家具や雑貨と引き換えに買い叩かれ、海外に安値で売り飛ばされている。

 

 一体なぜこんなことになったのか。文明開化だとか言われていた明治維新が、欧米による植民地化政策の一環のカラー革命だったことは、今では気づいている人も少なくない。そこにロックフェラーらによる石油支配(エンジンからまで人類の産業のほとんどを石油に依存させることによって覇権をにぎろうとする策略)が加わったことが、日本のみならず地球を破滅させるほどの汚染と有害ゴミ問題を引き起こしている。

 

 先日はお弁当を作って土筆を採りに行き、お礼に川のゴミを拾った。看板に不法投棄禁止と書いてあるのに、ペットボトルや酒の空き缶のほかに、真新しい安物のプラスチックのどんぶりが二つ捨てられていた。地元の畑近くのゴミは、堆肥の袋や資材と混ざっているので、どうやらあの川の横で慣行栽培をしている農家の誰かか、趣味で畑をしている中の誰かである可能性が高い。畑は私有地でも、農道と川は私有地では無いので、いくら拾っても捨て続けるようであれば、役場に相談してみよう。


 かつての日本であれば、弁当を食べて爪楊枝を使い捨てしたり野糞をしても、日用品の材料も食べているものも建築物も全てが分解可能な自然物で出来ており、道路も土が露出していて草や木が生い茂り、虫たちや微生物がたくさんいて分解を助けてくれていた。人間生活が自然と調和していたのである。

 それが欧米の植民地政策と、石油による支配で、大量の安かろう悪かろうの石油製品が出回り、地面の多くの面積がコンクリートに覆われたことで、分解されない大量の廃棄物が発生し、捨てられることになってしまった。ぼくらは単に景観を失っただけではなく、面影を宿すための「器」の、生命の循環のあり方が破壊されてしまったのだろう。

 

 もしぼくが何でもできる超人かゴジラだったら、日本の山や大地を覆う汚らしい太陽光発電パネルを引っ剥がして、風力発電やセルタワーを引き抜き、コンクリートの醜い建物を全部壊して、売国奴と一緒に宇宙の果てに吹っ飛ばすだろう。しかしそんなことはただの妄想である。

 

 もしぼくが総理大臣だったら、同じく太陽光パネルと風力発電とセルタワーと河川を固めたコンクリートを即刻撤去する。憲法を守り、悪法を撤廃改正し、国民の命と権利を守る。そして植樹して森と農地を増やし、大企業に使い捨てのプラスチック製品を作ることを止めさせ、リサイクルを徹底する。編集的世界観に基づいた文部科学と芸術を振興し、義務教育で自然農法や無農薬の有機農業、大地の再生について学ぶ機会を設け、地域通貨を広めて世代を超えて協力し地産地消を実践できるような社会システムを構築し、日本の山や海の生態系を守る杜人を、国を挙げて育てるだろう。しかしこれもただの想像だ。

 

 第一ぼくは政治家にはなりと思わない。今世では、ただマンガが描きたいだけなので、地道にゴミを拾いながら、まずぼく自身がゴミを出さない(ゴミになるようなものを買わず、作らない)生活をしなくてはならぬだろう。同時に先生の果たそうとしてきたことや、残念を背負って、進歩主義や加速主義に対する「有言」の抵抗をし続けていこうと思う。

 

 来月は福岡で開かれるエディットツアーに関わることになった。編集術を通じて地元の方々と知り合える機会だ。何か一緒に活動できるような仲間が出来ると嬉しい。

 

 多くの大人は子供たちに、大きな魚やたくさんの魚を与えようとするが、少し先のことを考える人は魚を与えずに、彼らに魚の取り方を教える。しかしより根本的なことを考える日本文明は、魚のいる海や河を守るため、水分を抱く山や森を、神として祀り守ってきた。たくさんの祈りや歌とともに、そこに面影が宿った。セイゴオ先生の仰るように、これは経済生活論でも衛生論でも失業問題でもない。一人一人が何を知り、そのことによってどう生きるか、どんな編集をするかという、知識(知恵と認識)と生き方の問題なのだろう。


 春愁や空もノートも白き午後

 

 

 

 

 

 

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