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連歌の世界

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada


千夜千冊739夜・読相篇、伊地知鉄男さんの『連歌の世界』を読んで思い浮かんだことを書いています。

 

 

 日々は矢のように過ぎ、アメリカではCIAや、USAIDといった組織が実質的に解体され、今までのアメリカの軍事作戦や、ワクチンやSDGsや気候変動対策の欺瞞が露呈して政治状況が大きく動いているが、中国共産党の支部となってる日本政府とマスコミは、国民の声を無視するどころが言論統制に踏み切るなど、相変わらず私利私欲にかられた売国犯罪を続け、庶民の暮らしを悪化させている。


「オツ千」の林頭と方源のホズミさんたちは、おそらくとても忙しいのだろう。編集工学研究所の他の仕事もあるのだろうし、イシス編集学校も、もうすぐ今期54守の卒門式、53破の突破式のための、感門の盟が近い。

 だからしばらく待つべきかどうか迷っていたのだが、特に約束事があるというわけでも無いので、ぼくは自分が出来る範囲で、セイゴオ先生の千夜千冊『面影日本』について、一夜ごとのブログを書いていくことにした。

 

 最近俳句や短歌は、若い人々の間でも一つの表現方法として、かなり一般的になってきたが、こと連歌に関しては、まだそうした動きが見当たらない。ぼくも全くと言っていいほど連歌について知らない。今夜のお話は、セイゴオ先生が、ぼくのような初心者へ向けて、連歌の成り立ちや仕組みを紹介し、「去嫌(去り嫌い)」や「賦物」など、独特な縛りのルールによって生まれる歌の魅力について解説してくださっている。

 

 この本自体が書かれたのは1967年で、時代背景と本の企画とが必ずしも関係しているとは言えないかもしれないが、『情報の歴史』には、世界は中東戦争や黒人暴動が激化する一方で、情報化と資本の自由化が進むなど、対立とそれをコントロールしようとする動きが活発化していたとある。芸術分野では、概念芸術の流行しだしたという。ちょうどデュシャンからウォーホルのポップアートへ向かう間くらいの時代ということか。

 

 日本の芸術は概念というよりは観念芸術とでも言ったほうがよいような、やわらかな感じがする。和歌は言葉や音を伴っているから、観音芸術でもあるのではなかろうか。そして相互編集である連歌には、先生曰はく「互いの言葉上の関係を絶妙に編集するための仕組み」があるそうだ。

 

 その仕組みの一つが「のきてつづく」といった「縛りのルール」である。ルールが芸術をつくり出すなんて意外だと思う人は多いかもしれない。しかし「縛り=型」があることによって、普段とは違う情報が引き出されてくるのだ。イシス編集学校の「守」コースは、こうした型を遊びつくすことで、情報の見方を揺さぶり変革を起こす。編集学校では、ルールが人をがんじがらめにして苦しめるのではなく、創発するための工夫として活かされている。

 

 それにしても、「のきてうつる」「名残」「見渡し」など、連歌はルールの名前までもが、いちいち恰好良くて洒落ている。「挙句の果て」「一巻の終わり」といった常套句が、連歌から来ていたというのもおもしろい。イシスの「離」コースの「総匠」というロールが連歌の「宗匠」から来ていると思うと、離の苛烈な「商量」と百韻連歌の一座建立とが、どことなく重なって見えてくる。先生もそういったイメージを持っておられたのだろうか。

 

 他にも連歌の、季節の変化によって連係していくという方法には感動を覚えるし、「賦物」の超絶技巧に関しては、凄すぎてぞわぞわするばかりである。

 

 ところで、イシスで歌といえば、五・七・五教室のイチクラ師範だ。今度野菜ソムリエのワカバヤシ師範と、目にも耳にも美味しそうなエディットツアーをするというイチクラさんは、感門の盟で教室名を物名にして、連歌みたいに仕立てて披露するという伝説の場面をつくった方であり、俳人でもある。あの離れ技を一人ではなく、何人かでやると「賦物」になるということなのだろうか。いつか編集用語を分かち配って詠みこむ「賦イシス連歌」など、みんなでやってみるとおもしろいかもしれない。

 

テーブルに並べ始める春野菜 皿に神仙山菜の花

テーブルに三本の独活並べる手 皿にうつりし春菜の香り

テーブルに本とみんなと春菊と 皿にサラダと盛りの連歌

 

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