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千夜千冊1818夜、加賀野井秀一さんの『20世紀言語学入門 現代思想の原点』を読んで思い浮かんだことを書いています。 https://1000ya.isis.ne.jp/1818.html 最近ぼくのアタマの中はわちゃわちゃしている。多分、ただマンガを描いてバイトしていた頃と違って「関係」が何倍にも増えたからだろう。自分でも言いたいことがあっちゃこっちゃに飛び散っているよなぁと思っていたところだ。しかし思考の素となる言葉そのものが、カンブリア的な大爆発を起こしやすいものなのかもしれない。今夜のお話はそんな言語生命史の20世紀を扱っているから複雑で長大なのだ。とはいっても内容を理解したいと思ったら整理する必要があるので、ひとまず今夜のお話を分けてタイトルをつけてみよう。 ●言葉とは? ●言葉の力・言葉の悩み ●ベルクソンとフッサール ●今夜の主人公ソシュールの履歴 ●ソシュールの構造言語学(structural linguistics) ●ソシュールの言語学の特徴 ●アメリカ言語学界の行方 ●レヴィ=ストロースの仕事 ●ミシェル・フーコー、ジャック・ラカン、ロラン・バルトの見方 ●脱構築とポストモダン ●20世紀の言語記号学あるいは記号学(記号論)の歩み ●チョムスキーの挑戦 ●意味の行方 ●言語研究と機械 ●言葉と意味 意味をめぐる歴史 ●モンタギュー文法 大きく全体の流れを俯瞰する本の千夜千冊を解釈しようとすると、今まで曖昧になっていた概念の位置関係みたいなものが、ぼくにも少しは見えてくるようだ。今夜も「ラング」(la langue/les langue)と「パロール」(parole)、シニフィアン(signifiant)=意味するもの、 シニフィエ(sinifié)=意味されるもの、構造主義(仏structuralisme)、エピステーメー(epistémé)やエクリチュール(écriture)、脱構築(déconstruction)、ポストモダン、デノテーション(denotation 外示)に対するコノテーション(connotation 内示・共示)、「ハイパーテクスチュアリティ」(間テクスト性)、「ハビトゥス」に「プラグマティズム」に「セマンティクス」にと…うろ覚えの言葉の意味を復習することができた。しかしこれらの言葉を使えるようになるには、まだまだ編集稽古が必要だということもはっきりしている。 全ての内容に自分の今の関心を掛け合わせて表象できたらいいのだが、今のぼくにはまだその能力が無いというか無理がある。だからちょこちょこと搔い摘むようにするのが良いのだろう。 ●言葉とは? ぼくにとって言葉とは何だろうか。最近一番印象に残ったのは戸田ツトムさんの『D-ZONE』のどこかに書いてあった「文字は精神界と物質界をつなぐ」という一文だ(正確なページを忘れてしまった…)。たしかに言葉は文字の親みたいなものだからなぁと思ったところで、ぼくの思考の世界もヴィトゲンシュタインというか、春のうららかな日差しの中にぼやけて溶ける。 ●言葉の力・言葉の悩み 「言葉の悩み」の中でも「誤解を生む」と言えば、生物学者デビッド・マーティンの動画である。彼は「生命保険業界は優生学ムーブメントをサポートしている」という批判を展開している。ぼくは彼が「DNAは自然の産物ではなく、特性であり、人間の操作のモデルです。」と言っていることに驚いたが、たしかにDNAの二重螺旋というのは、顕微鏡で染色体を拡大して行けばあの鎖型のモデルが直接ぼくたちの目に見えるというわけではないので、あの二重螺旋の図はDNAという「モデル」の「イメージング(画像)」だと言えるのではないかと思った。これはバーバラ・スタフォードの言うようなアルス・コンビナトリア(ars conbinatoria)を起こすものではなく、一般的なただのCG画像ベッタリのイメージング・サイエンスだ。 「DNAは存在しない」という見方が、良い意味では社会に強烈なインパクトを与えているのだが、マーティン博士は別にDNAやRNAという「モデル」を仮定することで生命について学んだり考えたりしている人々を批判しているわけではない。
DNAやRNA、あるいはエイズウィルスやコロナウィルスというモデルが、あたかもモデルではなく実際に目に見える形で存在しているかのように見せかけて人々を洗脳することで、それらの設計図を書き換えれば機械のように生命を思い通り操作できるという都合のいい理論を利用し、遺伝子組み換えやらゲノム編集などと称して、有害な化学物質や廃棄物を人体に投与したり食べさせたり、放射能や電磁波を浴びせる人体実験や社会実験を強要している者たちの浅ましさや傲慢さを批判しているのだろう。
一方彼の「染色体は創造主(至高の存在)とつながり宇宙からの叡智を受信するためのアンテナだ」という主張は、スタフォードが言っていた、古代から18世紀頃までの”アートフル・サイエンスの時代の人々”の「宇宙と身体は照応しており、至高の存在があらゆる創造に流れ込む」という考えと通じるように思う。 ●ベルクソンとフッサール フッサールの「超越論的主観性」(先入観をとりはらって世界を見つめなおす)というカーソルの束が、ベルクソンの言う「意識に直接与えられたもの」「直観」を呼び込むのではないかな? ●今夜の主人公ソシュールの履歴 弟子たちにたいそう慕われていたことが伝わって来る。生きているうちに世間の評判を得ることが、必ずしも人類の文化に長く寄与することにつながるとは限らないということを教えてくれる。 ●チョムスキーの挑戦 フィルモアの、言語は「フレーム」によって成立しているという発見や、レイコフの概念メタファーの可能性に気づきにはなるほどと思えた。しかし思うような成果を出せずとも道を切り拓こうとしたチョムスキーがいたからこそ、2人はそこから新たな発想へ向かえたのではないかと思う。 ●言語研究と機械 ぼくにとって機械は「いちいち一つづづするのが面倒くさいことを簡単に処理するための道具」だけれど、面倒なことを機械に任せるということは、例えば翻訳機に頼るクセがつけば外国語を自分で学び話そうとはしなくなるように、その行為を自分ができるようになるかもしれない機会や可能性を捨てるということなのだと思う。 この前ローカル番組で、若い男女がスマホ無しで待ち合わせた場所に辿り着けるか実験する企画があり、彼らがスマホ無しでは、スマホが無かった時代の人々が何気なく出来ていた様々なことが出来ないことが露呈した(身をもって知った彼らは大事なことを学んだのではないだろうか)。ぼくはその様子から、もし災害やテロ(人工地震・気象操作・EMPパルス)などによってエネルギーインフラや通信が遮断されたら、普段から機械に頼る割合が大きい人間ほど、機械無しで思考し行動するということがままならず、政府や軍に言われるがまま、管理されるがままになるのではないかと思った。 少し話は逸れるが、気象兵器をはじめとするどうでもいい機械を動かす電気のためにメガソーラーや巨大風力発電を作りまくれば、水脈が遮断されることによって土が乱れ、もともとあった天然の水源が枯渇したり汚染されたり、開発で森林が伐採され木の根が山の水分を調整できなくなったことで、急な大雨による土砂崩れや川の氾濫などの災害が起きるようになる。人間も地球も=個も類も同じように、生存に関わるような大切なものを失いうるのだ。 ひろくコミュニケーションやメディアとの関連性においても、最近AIに絵や小説やマンガを描かせることをもてはやしている。機械にさせたらどうなるか実験したいということなのだろうけど、ぼくは一生見ないだろう。ぼく自身も含めて誰もが「よりキレイに」とか「よりリアルに」とか「リアルな質感」とか言ったことを求めるが、その「リアル」とは何なのかということが問題だ。 ただぼくは自分でする方がおもしろいことを、なぜ機械にさせる必要があるのかと思うのだ。靴下を履いたりシャツを脱ごうとする子どもが「自分でやる」と言って新たな世界へ踏み出すように、ぼくは墨の匂いを嗅ぎながらペンを走らせ、友達とお喋りし、本を読んで既知から未知への冒険へ出たい。 ●言葉と意味 意味をめぐる歴史 ●モンタギュー文法 今夜のお話は「文字の酒場」ならぬ「言葉の酒場」のような賑やかさなので、どう考えたって退屈しようが無い。ぼくは特に〆の「モンタギュー文法」から大いに示唆を得た。セイゴオ先生のまとめは「NLPやAIによる開発技術」そのものではなく、その「隙間」に関心を寄せてみたほうが、「新たな展望が佇んでいるのではないかと思われてくる」というところがとっておきだ。きっとその隙間で、もっと言葉に遊べばいい。 14離の仲間との企画会議の「ノリ」が転移したことで始まった「文字のバー」について、49破の学衆さんに併走するつもりでプランニングをしたのだが、離学衆として「ハイパー」なものを作るにはもう少し広がりが必要だったようで、色々とイメージをマネージするうちに、「文字のバー」は「文字のスナック」「文字のカフェ」などと場所の組み合わせが増えて「文字の酒場」プランになった。 「文字のバー」では文字(書体)とお酒の組み合わせを愉しみ、「文字のカフェ」では先生のように”味のある文字”が書けるようになるためのワークショップをしたらいいのではないかと考えた。 特にみんなにも喜ばれたのが、一人ひとりの声に似合う文字や文字に合う声を探す「文字のスナック」だ。富山庄太郎さんがデザインした今夜のユニークなトップ画面は、なんだか「文字のスナック」の看板のようでもある。この企画をハイパーにするならどうしたらいいだろうか。ぼくは古い羊皮紙に書かれた聖歌を指でなぞりながら、修道士たちの歌声に耳を澄ましてみたい。大昔の書の名人の写経を見ながら、読経の響きを全身に感じたい。その時そこに書かれた意味を知ることが、その瞬間を生きる意味なのだ。 巣立ち鳥風氣に声をはげませり