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AIについて

執筆者の写真: Hisahito TeradaHisahito Terada


新年あけましておめでとうございます。

 

何が何だかよく分からないが、ぼくへのメッセージのような記事だった。

とにかく吉村林頭は、ぼくをはじめとした、編集学校の中の一定の人々に、AIに忌避意識があると思っているらしい。離の寺田別当は以前「AIは使う人の想像力を削いでいるのではないか」とセイゴオ先生に話したが、先生は「僕が関心をもっているのはマン・マシーンなんだよ」とおっしゃったらしく、マンとマシンがつながって、おもしろくなることを目指しているんだと言われて、自分がアンチAI感を出してしまっていたのだと反省したという話をされていた。

 

 ぼくは人間が機械(マシン)を使うことに関して反対しているワケでは無いし、実際にぼくだってパソコンやフォトショップなどのソフトを使っているという意味では、すでにマン・マシン状態だと思う。ぼくはイシス・コミッションの、宇川直宏さんの「破」の教室名発表映像に関しては、絵画が描かれながら、それぞれの教室与えれれタモチーフ(与件)が守のものから破のものへ変化するような様子が面白いと感じた。あそこまで編集できて、やっと人間は「自分なりにAIを使いこなすことが出来る」ということなのだろうなと思った。

 

 ぼくはAIとは「効率化の道具」だと考えている。だから将棋とか絵画展とかで、人間とAIを同じ土俵に立たせて競わせるのは、車と人間が徒競走をして車が勝ったと言っているような、無意味なことのように感じる。AIを使って競争がしたいなら、新たにAI○○コンテストみたいな場を創出したらいいのに、なぜ人間とAIを闘わせて優劣をつけたいのか、ぼくには分からない。

 

 はたして生成AIで写真のようなイラストを作れるようになって、仕事として絵を描く人は減ったのだろうか(知り合いの女性マンガ家さんは、アナログ画材にチャレンジしだしていた)。ただぼく自身は、そもそも描くこと自体が好きで描いるので、マンガやイラストを描けるAIにとくに脅威は感じていない。むしろその影響で多くの人が、アナログならではの質感や、描くという行為自体を楽しめるようになったならば、それはそれで良いことだと思っている。

 

 ぼく自身が今AIを積極的に使わないのは、一つには、ぼくがAIをスマホと同じく、とても便利な万能の道具だと思っているからではないかと思う。それはセイゴオ先生が「ぼくはそういう便利さにはなるべく近寄らないようにしている」と言っていたことを真似している気もする。

 ぼくの憶えている先生は「いつもスマホを片手に」してはいなかったし、千夜千冊を書く時だって「書院」という古いマシンを使い続けていた。だからぼくも先生のように、AIを「実験的に使う」ことはあっても、チャットGPIや生成AIを、ブログやマンガや編集学校の活動に日常的に使いたいとは思わないし、自分のマンガのキャラクターはアナログの線で描きたい。

 

 つまりマシン全般を「使う・使わない」にも、頻度や使い方に多様なグラデーションがあるのではないかと思う。

 AIと他のマシンを同じ道具とみなしていいのかという問題もある。さらに一口にAIと言っても、家電に搭載された機能程度のものからASIまで様々なので、どのレベルのものを指すのかで問題も変わってくる。ぼくが言っているのはチャットGPIや生成AIなど、人間が言葉で考えたり、イラストを描いたりする部分に相当するのだろう。

 

 ぼくだってもしかしたら、そのうち背景や色塗りをAIに任せたりすることがあるかもしれないし、ないかもしれない。それはそのときの自分気持ちや状況によって変わっていくものだ。

 しかし一方で、ぼくはどうしてもAIでブログを書こうという気にはならない。そうした場合の文章をAIに任せるというのは、言葉で考えるという行為自体を放棄することになるのではなかろうか。ぼくにはそれは、生きることや世界認識そのものを、捨てることにつながらないだろうかという葛藤のようなものがある。

 

 ぼくはまた、AIを平均的な情報を提供するメディアとして考えている。イシス編集学校には人間を一つのメディアとする見方がある。AIはテレビ、スマホに次ぐ、新しいメディアなのだと思う。AIを使えば、本やラジオやSNSのように、他者の意見や見方に傷ついたり迷ったりモヤモヤしたりすることなく、情報を得ることが出来るのではなかろうか。それに慣れると、人間はさらに偶然の出会いや発見を避け、別様の可能性を排する方向へ行くことにならないだろうか。

 

 現在でも、ぼくの甥や姪は、睡眠時間外はスマホと共に生きており、別の見方をすればスマホ中毒なのだが、このまま行くと人類はそのうちスマホだけではなく、AIが無ければ生きていけないようになるのではなかろうか。そして突然、災害やテロによってマシンが使えなくなった時、ネット検索やAIの答え無しに、周囲の人間とコミュニケーションを取りながら生きていけるだろうかと、ぼくは心配になることがある。そのとき”救済”に現れた、政府や軍隊や組織が与えるものをありがたがって言いなりになったり、ハゲタカや火事場泥棒のなすがままになったりはしないだろうか。

 ぼくたちは「どうしたらいいか」というテストを国家的にも民族的に失い、大学で何をやったってコンプライアンスさえ守ればいいと思ってて、想定外のことが自分の身にふりかかってやっと「ああ、こういうことだったのか」分かる事態になっていってはいないだろうか。

 

 そういう意味では、ぼくは寺田別当の「AIは使う人の想像力を削いでいるのではないか」という意見に半分賛成している状態にあるし、それは前半に別当が言われた「テクノロジーの進歩の中で人の目利き力が奪われていくのが大きな流れではないか」という内容とも無関係ではないと思われる。

 つまりぼくは、AIそれ自体が人の想像力を削いでいるのではなく、AIなどの最新テクノロジーと人間を一体化させることによって、より便利に効率的にしようとする世の中の流れが、人々の想像力も判断力も削いでいるのだろうと思う。一体誰のための、何のための進化なのか、そもそも進化することが正しいのか、立ち止まって考える間すら与えられていないような気がする。


 パソコンを使いながら、そういう流れに抵抗したいと思って生きているぼくは、おかしなマン・マシンである。だからAI開発者が神のような(人間を超える)AIをどうしても作りたいというなら、ぜひとも「そんなことは自分で考えなさい」と言って人間を突き離すことのできるAIを作っていただきたいと思ったりするのだろう。

 

 スティーブ・ジョブズのようなテクノロジーについて詳しい人々は、実のところ自分の子供にはスマホを持たせなかったりするというのは有名な話であるし、海外では国ごとや州ごとに厳しい年齢制限をしていることもある。それは一つには電磁波の脳や身体への影響を懸念しているからだろうが、彼らは他のマシンと、スマホやタブレットなどとの違いや、AI搭載のデジタル機器を常用することによって、人間の思考力や社会、国家や民族にどういった影響があるかを、既に想像し、考えて、話し合っているからこそ、そうした方針を採用しているのだろう。

 

 機械と人間の違いを感じたいなら、先生の書のことを考えるといいのかもしれない。先生の直筆の書には、その時の先生の体調や感情や息吹が宿っている。

 

 究極のことを言ってしまうと、先生の思考パターンを移し、先生と同じ見た目や動きのロボットが出来たとして、それは先生の代わりとなるのだろうか。矛盾しているが、ぼくは人類がそうしたことを目指すなら、そんなものが完成する前にさっさと死んでしまいたい。でもそうしたロボットが、もし誰にも見向きもされず、電源を切られて転がっていたら、おおいに矛盾しているが、ぼくはその壊れた欠陥品のロボットの中にこそ、先生の魂を見出すことができるだろう。


 死は春の空の渚に遊ぶべし 石原八束

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